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鶴岡政男《重い手》──不条理を凝視する「徳江庸行」

影山幸一

2014年06月15日号

描く人から見せる人へ

 徳江氏は多摩美術大学へ入学し、油画を専攻していた。大学生のときに、群馬県立近代美術館でのアルバイトの体験から学芸員という職能を初めて知ったと言う。当時はまだ社会的に認知されていなかった学芸員だが、卒業時に偶然群馬県立近代美術館の学芸員募集があり、応募したところ選出され、1980年に学芸員となった。
 絵を描き鑑賞していた立場から、展覧会を企画し、展示する立場になったという徳江氏。当初は5人の学芸員だったが年間6本の展覧会を開催する仕事に追われたそうだ。そして1999年から2008年までの約10年間は、群馬県立館林美術館開設の準備と学芸業務のため、群馬県庁と館林美術館に勤務し、2009年より再び徳江氏のホームグラウンドである群馬県立近代美術館へ戻った。
 鶴岡作品との出会いは、美術館に入ってすぐの1982年あたりと振り返る。1979年に群馬県立近代美術館で開催された鶴岡政男の回顧展のあと、美術館が受寄者となって、集められた作品や資料など多くが寄託された。徳江氏はその資料整理を切っ掛けに鶴岡作品と向き合い研究するようになる。その時以来ずっと鶴岡政男を担当し、運命的な出会いとなった。
 鶴岡作品の第一印象を徳江氏は「ユーモラスな感じはするけれど、奥底に虚無感のような淀んでいる世界が存在し、ずっと気になる作品であった。《重い手》を意識的に見ることができたのは、1979年の当館で開催した鶴岡初の個展のときではなく、時期は忘れたが上野の東京都美術館に展示されていたときだ。実際の作品は、大きく感じマチエールに迫るものがあった」と述べた。鶴岡作品は、北は宮城県から、西は福岡県まで全国の美術館、特に公立の美術館に多く所蔵されている。没後に画家としての地位を確立したと言われる。

『ヘルマンとドロテア』

 鶴岡政男は、1907(明治40)年に群馬県高崎市の建築金物製造業を営む木ノ内峯吉とはつのひとりっ子として誕生した。しかし、鶴岡の妻もとが語ったという一説では、鶴岡はもらい受けた養子で血のつながる弟が二人いるようだが詳細は不明だ。やがて母は父の弟子だった鶴岡勇吉と駆け落ちし再婚。1921(大正10)年、14歳になった鶴岡は東京・文京区本郷高等小学校高等科を卒業した。時計屋へ奉公に出たが、向かい家に洋画家が住んでおり関心をもった。その頃読んでいたゲーテの叙事詩『ヘルマンとドロテア』に感銘し、これが絵の道へ入る契機となった。

  動揺する時代におのが心までぐらつかせる者は、
  禍を増すばかりか、世間に禍をひろげてゆく。
  それにひきかへ志を堅固にたもつ者は、みずから天地を造るのだ。
       ──ゲーテ『ヘルマンとドロテア』(佐藤通次訳、岩波書店、1932)より
       (徳江庸行『図録生誕100年 鶴岡政男展』p.12)

 鶴岡は、母の協力を得て石井柏亭(1882-1958)のもとで絵を学び始め、泉鏡花(1873-1939)や室生犀星(1889-1962)、萩原朔太郎(1886-1942)、稲垣足穂(1900-1977)らに傾倒し、自らも詩作するなど多感な青年期を過ごした。シュルレアリスムやプロレタリア美術が全盛の大正から昭和初期、鶴岡は15歳で明治から続く歴史のある美術団体「太平洋画会研究所」に入り、中村不折(1866-1943)らに学び、井上長三郎(1906-1995)や靉光(1907-1946)らと交遊を深めた。1927(昭和2)年二十歳になると鶴岡は召集されたが、演習で馬に蹴られて入院、現役免除となった。その翌年には井上長三郎ら数名とともに月謝滞納などの理由で「太平洋画会研究所」を除名される。このことに抗議した者たちにより、1929年「洪原会」を結成。1930年には「洪原会」を発展的解散し、造形上の前衛性を推進する「NOVA美術協会」を発足、鶴岡23歳。展覧会を7回開催したがメンバーが招集され、官憲からの制限もあり1937年NOVAは止むなく解散。鶴岡は結婚したが6カ月後に兵役に服した。上海でマラリアと肺結核を発病し1940年に帰国。1943年靉光、麻生三郎(1913-2000)、井上長三郎、松本竣介(1912-1948)らと時局に左右されずにヒューマニズムを共有したグループ「新人画会」を結成。1945年38歳で終戦。東京大空襲でほとんどの作品を失った。1947年40歳になると「新人画会」は“自由に新しい前衛芸術をつくろう”と掲げた「自由美術家協会」に合流。1953年46歳で第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に《重い手》などを出品。1960年代からアンフォルメルを思わせる抽象画やパステル画を描き、晩年になるにつれて色彩が豊かになるなど、止まることなく作風を変えていった。そして1979年群馬県立近代美術館で開催された初の美術館での個展「戦後洋画の異才─鶴岡政男の全貌展」を見ることなく、展覧会終了の三日後肺がんのため他界。72歳だった。

【重い手の見方】

(1)タイトル

重い手(おもいて)。Heavy Hand。

(2)サイズ

縦130.0×横97.0cm。2畳間のアトリエの広さが、F60号サイズを選択させたのかもしれない。

(3)画材

キャンバス、油絵具。画材は上野・浅尾拂雲堂(あさおふつうんどう)の浅尾丁策(ていさく)氏より購入していた。戦後物資がない時代のためか、絵肌に凹凸はあるが絵具は薄塗り。

(4)モチーフ

人間。

(5)色

白、黒、茶、グレー、青、黄色を使っているが、全体は褐色を中心とした暗いモノトーン。

(6)構図

斜めに組まれた太い梁による背景が、人物の正面性を際立たせている構図。

(7)様式・技法

古代ギリシア・ローマへの回帰を基調としたピカソの影響がデフォルメされた巨大な手や太い足の描き方に見られる。

(8)サイン

画面右下に「m. TuruoKa」と署名がある。

(9)制作年

1949(昭和24)年。太平洋戦争での敗戦から4年後、リアリズム論争が行なわれている最中に描かれた。

(10)鑑賞のポイント

ひとりのスキンヘッドの男性が冷たい石畳の上にうずくまっている姿に見えるが、さまざまな人間の肉片の塊として見ると、一気に異様な光景となる。無機質な建築物の中に生命はなく、光の射す部屋に希望を見出せるのか、空には雲がなく、どんよりとした虚無感が漂う。床にだらりと広げられた大きく腫れた手、背後から男を捕まえるような巨大な手、その手の力に逆らうかのような小さな手、傷ついて太く腫れあがった左足、それらが目に見えない不気味な圧力や重力を視覚化している。鶴岡は戦争で家を失い、7畳の借家に娘3人を含む家族6人と生活していた。《重い手》は、その環境下で鶴岡の生きている証明として、昼夜を問わず制作された。太平洋戦争での敗戦と混乱を引きずる社会状況のなかで、人々の心理状況を反映した作品であり、人間の矛盾を追求した、鶴岡自身のやりきれない実感の表出でもある。耐え忍ぶ人間像は物と化した人間として、いまも人々の心のなかで自由と平和へのメッセージを強く発している。日本の戦後を象徴する鶴岡の代表作である。

鑑賞の自由度

 《重い手》について徳江氏は「一回見ただけで、どういうふうに身体がなっているんだろう、どういう状況に置かれているのか、どこにいるんだろうと、気になってくる作品。力が下に向かって働いており、背後には構築的なものが描かれていて、閉塞感を感じる。大きい手と小さい手、太い足と細い足から大人と子ども、男と女と解釈することもできる。《重い手》は描かれた当時はそれほど反響がなかったようだが、年代を経て評価が高まってきた作品である」と語っている。
 2007年徳江氏が企画した鶴岡展の作品解説では「この作品は、上野の地下道の浮浪者にヒントを得たという。鶴岡は自作解説で、「外界の圧力に耐えている人間像をモニュマンタルに表現しました」★1と簡潔に書いている。「外界」とは、封建的で不条理な体制か、あるいは束縛の多い家庭を指すのだろうか。晩年、鶴岡は「…ようするに、捕まえられている時の絵ですよ。…苦しい絵ですね。…最高に。それからね、あれから仕事でもね“逃げる”が始まったのよ」★2とも語っている。戦後の混乱した社会を象徴するだけでなく、いかなる時代においても、見る側がそれぞれのおかれた状況に照らし合わせて解釈しうる作品となっている」(徳江庸行『図録 生誕100年 鶴岡政男展』p.155)と記している。人間が圧迫された時代の重く閉ざされた内容の絵ではあるが、鑑賞の自由度が高い開かれた作品なのだ。

★1──「作者はいう(重い手)」(国立近代美術館監修『抽象と幻想』近代美術叢書、東都文化出版、1955)
★2──司修「蜘蛛屋敷の画家6 護身術」(『文芸』第18巻第6号、1979年7月、p.263)

「事ではなく物を描く」

 日本の戦後美術界に大きな影響を与えた鶴岡の残した言葉に「事ではなく物を描く」がある。美術雑誌での座談会で発言したこの言葉は、《重い手》が描かれたあとの1953年に国立近代美術館で開催された「抽象と幻想展」をめぐり、鶴岡が「日本の絵というものは、全体に物を描かないと思うのだよ。物を……。事を描いていると思うのだ。事は物でもって表現されなければならないのに、物を忘れて事を描こうとしている。絵というものは、一番、物で表現しなければならないと思うのだ」(鶴岡政男『美術批評』2月号、1954、p.17)。そして「物といっても、もちろん実在する物というものではなくてね、絵画のうえの物としての……」(同p.21)と、意味深長で刺激的な言葉を発し、さまざまな解釈が生まれ議論を呼んだ。
 美術評論家の峯村敏明は「状況を切り裂くような名言」(峯村敏明『1953年ライトアップ』p.107)と評価し、「この発言が絶妙なのは、まず第一に、『事ばかりを描く日本の絵画』と表現することで、装飾性、叙情性、非触覚性に著しく偏りがちな日本のモダニズムを撃つのと一緒に、物語性、観念性、外的自然への依存に足を掬われがちな同時代のリアリズムをも辛辣に批判し得ていることである」(同p.112)と読み解いたうえで「鶴岡のいう『物』は、『事』との対比で語られていることだけがヒントであって、解釈は私たちにゆだねられていた」(同p.118)と述べ、断定ではなく、思考を促すことに気づかせる。
 徳江氏は、「鶴岡発言は日本の作家にとって普遍的な問題を含んでいる。鶴岡を含めた『抽象と幻想展』へ出品した日本人作家の作品に対して、“日本の現実を描け”という意味でこの言葉を鶴岡が発したとすれば納得しやすいのではないか。また、この発言は1954年から1972年まで続いた『具体美術協会』や1968年の関根伸夫《位相─大地》に始まる「もの派」誕生の萌芽ともいえる。“物の凝視”の重要な兆候は、鶴岡発言に端を発している」と述べている。

人間とは何か

 鶴岡の生きた時代は、関東大震災、思想文化への弾圧、日中戦争から太平洋戦争におよぶ十五年戦争、戦後の性急な復興、と激動の時代だった。鶴岡は、時代と深く関わりながら、抵抗と批判精神をもって独自の画風を展開していったが、作品がほとんど売れない苦しい生活では、機械工具の店や図案社勤め、漫画描き、鏡の面取り工、焼き鳥屋、メリヤス会社の意匠部員などと、仕事を転々として凌いだ。また絵画以外にも彫刻やガラス絵、そのほか釣り竿をつくらせれば名人並み、パチンコは朝から晩までやり、テープレコーダーに多重録音やボンゴを叩くなどと手先が器用で多芸多才であり、しかもすべて徹底して追求して行く。“人間とは何か”、と問い続けた鶴岡の人間探求そのものの生き方であった。
 「自分の精神性というものを極力排除しているのですよ。最後にどんづまりに残った、物としての人間、精神のない無機的な存在といいますか、あるいは有機というだけのことであって、他の動物にひとしいような、そういうところまで自分の最後をいっぺん見極めてみたい」(鶴岡政男『美術批評』2月号、1954、p.22)と、鶴岡は命がけで絵を描いていたが、その姿を人に見せないダンディーさがあったのだろう、と徳江氏は言う。
 《重い手》は、「事ではなく物を描く」発言と作用し合い、日本の近代美術と現代美術を接合させながら、絵ではない絵の領域を拡張していった。実在する《重い手》は心に宿り、いつでも対話することができる。

徳江庸行(とくえ・つねゆき)

群馬県立近代美術館補佐(総括・教育普及係長)。1956年群馬県伊勢崎市生まれ。1980年多摩美術大学美術学部油画専攻卒業。同年群馬県立近代美術館学芸員、1999年群馬県立館林美術館開設準備室学芸員、2001年群馬県立館林美術館学芸員、2009年群馬県立近代美術館学芸員を経て、現在に至る。専門:日本近現代美術。主な論文:「鶴岡政男の足跡」『図録 生誕100年 鶴岡政男展』(東京新聞, 2007)、「再考「事ではなく物を描く」─鶴岡政男の発言を巡って」『群馬県立館林美術館研究紀要 第5号』(群馬県立館林美術館, 2007)など。

鶴岡政男(つるおか・まさお)

画家。1907〜1979(明治40〜昭和54)年。群馬県高崎市に木ノ内峯吉・はつの長男として生まれる。1914年母の再婚で鶴岡姓となる。8歳で上京、幼少時から住所を転々とする。1922年太平洋画会研究所に学び、その後除名。井上長三郎や靉光らと交友。1929年井上らと洪原会を結成し、1930年洪原会解散後、NOVA美術協会を創設。1937年NOVA閉鎖、工藤もとと結婚後、支那事変により中国大陸へ出征。1940年兵役解除ののち1943年松本竣介や麻生三郎らと新人画会結成に参加。1945年東京大空襲でほぼ全作品を焼失。1947年新人画会のメンバーらと自由美術家協会に合流。1953年第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に《重い手》などを出品。1954年雑誌の座談会で「事ではなく物を描く」ことを主唱。1979年群馬県立近代美術館での回顧展「戦後洋画の異才─鶴岡政男の全貌展」の終了3日後に東京で没す。2007年「生誕100年 鶴岡政男展」を群馬県立館林美術館で開催。主な受賞:《落下する人体》(第1回現代日本美術展佳作賞, 1954)、《夜の祭典》(第7回日本国際美術展優秀賞, 1963)、《青いカーテン》(第8回日本国際美術展国立近代美術館賞, 1965)、《視点B》(第7回日本現代美術展神奈川県立近代美術館賞, 1966)。代表作:《重い手》《夜の群像》《人間気化》《青いカーテン》《視点B》《ゴルフ》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:重い手。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:鶴岡政男, 1949年, キャンバス・油彩, 縦130.0×横97.0cm, 東京都現代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:東京都現代美術館, (株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 61.9MB(1,200dpi, 8bit)。資源識別子:Order No.15511, コレクションNo.TRG000002, 画像No.inv.:75-00-0317-000, 東京都歴史文化財団イメージアーカイブ, 82.4MB, TIFF。情報源:東京都現代美術館, (株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:鶴岡政男遺族, 東京都現代美術館






【画像製作レポート】

 《重い手》は東京都現代美術館が所蔵する。鶴岡政男のご遺族から作品画像の使用許諾を得て、東京都現代美術館の作品画像を取り扱っている(株)DNPアートコミュニケーションズへ「申請書」と「作品写真使用許可証」を郵送。3日後メールで画像をダウンロードするURLが指示され、82.4MB・1,200dpiのTIFF画像(カラーガイド・グレースケールなし)を取得した。画像掲載期間は1年。
 iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、画像の色調整作業に入る。図録などの印刷物を参照しながら、反時計回りに1度回転させ目視により色を調整、縁に沿って切り抜く。Photoshop形式:61.9MB(1,200dpi, 8bit, RGB)に保存。セキュリティーを考慮し、画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。
 近代、現代の作品画像の利用には、著作権処理を行なう場合があるが、個人情報保護法の下で著作権者を探し出すのは容易なことではない。文化の後退を招かないよう、著作権者と著作物利用者をつなぐ、「著作権者データベースシステム」を文化庁主導で早期に実現してもらいたい。



参考文献

和辻哲郎『続日本精神史研究』1935.9.25, 岩波書店
山本正・岩崎鐸・鶴岡政男・斎藤愛子・中谷泰「《座談会》画家と生活」『美術手帖』No.18, pp.32-38, 1949.6.1, 美術出版社
鶴岡政男「絵画に於けるヒューマニズム」『アトリエ』No.291, pp.25-38, 1951.4.1, アルス
荒正人・佐々木基一・寺田透・野間宏・花田清輝・麻生三郎・井上長三郎・末松正樹・鶴岡政男・長谷川三郎・濱田知明・森芳雄・吉井忠「新しき藝術運動に就いて─討論會」『ESPOIR』pp.116-127, 1952.1.1, エスポワール編集室
鶴岡政男「貧しさの中から」『希望』7・8月号, pp.33-34, 1952.8.1, エスポワール社
吉井忠「鶴岡政男について」『アトリエ』No.310, pp.15-16, 1952.9.1, アトリエ社
鶴岡政男「絵画とタブロオ」『美術批評』3月号, pp.8-11, 1953.3.1, 美術出版社
針生一郎「実在の復歸─近代絵画の運命」『美術批評』5月号, pp.21-25, 1953.5.1, 美術出版社
針生一郎「作家訪問 鶴岡政男」『美術手帖』No.75, pp.6-10, 1953.11.1, 美術出版社
小山田二郎・駒井哲郎・斎藤義重・鶴岡政男・杉全直「《座談会》「事」ではなく「物」を描くということ 国立近代美術館「抽象と幻想展」に際して」『美術批評』2月号, pp.13-24, 1954.2.1, 美術出版社
『現代の眼』No.4, p.4, 1955.3.1, 近代美術協会
鶴岡政男「絵画の空間とフォルム デフォルマションとフォルマション」『増刊 アトリエ』pp.83-104, 1955.4.15, アトリエ出版社
瀧口修造「シュルレアリズムと幻想芸術」『抽象と幻想』図録, 1955.6.10, 東都文化出版
瀧口修造「現代作家小論1 鶴岡政男」『美術手帖』No.98, pp.21-25, 1955.8.1, 美術出版社
鶴岡政男「私の状態」『美術批評』1月号, pp.36-37, 1957.1.1, 美術出版社
長谷川龍生「アトリエでの対話/鶴岡政男 クラーブ・アンディスクレ」『美術手帖』No.222, pp.51-54, 1963.7.1, 美術出版社
佐々木豊「技法発見・3 鶴岡政男氏と「種もしかけもない」技法」『美術手帖』No.264, pp.46-53, 1966.3.1, 美術出版社
桑原住雄「鶴岡政男の壮挙」『みづゑ』No.733, pp.62-70, 1966.3.3, 美術出版社
石子順造「鶴岡政男論ノート─その庶民的感性の爛熟について」『現代美術』No.9, pp.52-60, 1966.5.10, サン・プロダクション
「研究会の記録 鶴岡政男氏の作品と主張」『自由美術』No.32, pp.32-35, 1968, 自由美術協会
『現代の眼』No.207, 表紙・p.8, 1972.2.1, 東京国立近代美術館
酒井忠康「月から出た人」『みづゑ』No.895, pp.29-36, 1979.10.3, 美術出版社
橿尾正次 編「鶴岡政男・年譜」『みづゑ』No.895, pp.29-36, 1979.10.3, 美術出版社
『現代の眼』No.299, p.8, 1979.10.1, 東京国立近代美術館
土方定一「鶴岡政男論 ひとつの覚え書」『戦後洋画の異才 鶴岡政男の全貌』図録, 1979, 群馬県立近代美術館
蔭山恭一「鶴岡政男論─戦争体験をめぐって」『美術グラフ』第29巻・第3号, pp.6-18, 1980.6.1, 時の美術社
田島征三「田島征三が推す鶴岡政男」『芸術新潮』第31巻第8号, pp.18-19, 1980.8.1, 新潮社
三木多聞「鶴岡政男のあしどり」『寓意像 鶴岡政男素描画集』1988.6.21, PARCO出版局
三田英彬『芸術とは無慚なもの──評伝・鶴岡政男』1991.12.15, 山手書房新社
峯村敏明「触覚のリアリズム──噴出したもう一つの日本」『1953年ライトアップ─新しい戦後美術像が見えてきた』pp.107-132, 1996, 目黒区美術館・多摩美術大学
徳江庸行「鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎の素描について」『人間をみつめて 鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎──素描を中心として』pp.5-8, 1996, 群馬県立近代美術館
山梨俊夫「近代日本美術家列伝135 鶴岡政男」『美術手帖』No.753, pp.196-197, 1998.3.1, 美術出版社
鶴岡美直子『ボタン落し──画家鶴岡政男の生涯』2001.6.1, 美術出版社
徳江庸行「再考「事ではなく物を描く」─鶴岡政男の発言を巡って」『群馬県立館林美術館研究紀要 第5号』pp.13-25, 2007.3, 群馬県立館林美術館
春原史寛「鶴岡政男と松本竣介─ふたりの画家のヒューマニズム」『企画展No.59 画家の動と静 鶴岡政男と松本竣介』pp.9-16, 2003.10.1, 大川美術館
Webサイト:「オサルスの展覧会リポート 生誕100年 鶴岡政男展─無頼の遊戯」2007.4.17(http://www.gaden.jp/info/2007/070417/0417.htm)GA-DEN-IN-SUI-SYA, 2014.6.8
Webサイト:「鶴岡政男展」『神奈川県立近代美術館』2007(http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2007/tsuruoka/event01.html)神奈川県立近代美術館, 2014.6.8
Webサイト:「鶴岡政男「重い手」」『KIRIN ART GALLERY 美の巨人たち』2007.6.2(http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/070602/)テレビ東京, 2014.6.8
「鶴岡政男─魂の叫び」『美術の窓』No.302, pp.154-157, 2007.10.20, 生活の友社
図録『生誕100年 鶴岡政男展』2007, 東京新聞
飯野正仁「戦時下日本の美術家たち 第19回 「事」ではなく「物」を描く 鶴岡政男 戦後を生きる3」『あいだ』No.144, pp.16-23, 2008.1.20, 『あいだ』の会
粟津則雄「鶴岡政男「仲間たち」」『美のおもちゃ箱』pp.70-71, 2009.1.10, 芸術現代社
大谷省吾「戦前と戦後の前衛絵画をつなぐもの─福沢一郎、鶴岡政男、北脇昇を例に」『藝叢』第25号, pp.29-52, 2009.3.1, 筑波大学大学院人間総合科学研究科芸術学研究室
佐波甫「鶴岡政男論」『美術批評家著作選集 第2巻 佐波甫』監修:五十殿利治, pp.403-406, 2010.6.30, ゆまに書房
Webサイト:大西若人「(美の履歴書)「重い手」」『朝日新聞DIGITAL』2013.12.26(http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201312250481.html)朝日新聞社, 2014.6.8
Webサイト:「普及プログラム「ワークショップ」みえる人とみえない人の「井戸端鑑賞」オリジナル音声ガイド Day2 Aチーム 鶴岡政男《重い手》」(長尾憲一:音声編集オペレーター)『東京都現代美術館』2014.3(http://www.mot-art-museum.jp/sp/edu/workshop.html)東京都現代美術館, 2014.6.8
Webサイト:「鶴岡政男」『練馬区立美術館』(http://jmapps.ne.jp/nerima_art/sakka_det.html?list_count=10&person_id=56)練馬区立美術館, 2014.6.8
Webサイト:「本県ゆかりの作家たち 鶴岡政男」『群馬県立近代美術館』(http://mmag.pref.gunma.jp/collection/honken/tsuruoka.htm)群馬県立近代美術館, 2014.6.8
Webサイト:福住廉「Artwords 「事ではなく物を描く」鶴岡政男」『artscape』(http://artscape.jp/artword/index.php/「事ではなく物を描く」鶴岡政男)大日本印刷, 2014.6.8


主な日本の画家年表
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2014年6月

  • 鶴岡政男《重い手》──不条理を凝視する「徳江庸行」

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