アート・アーカイブ探求

熊谷守一《白猫》──抽象画に見える「池田良平」

影山幸一

2009年01月15日号

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熊谷守一《白猫》1962, 油彩・板, 24.1×33.2cm, 愛知県美術館 木村定三コレクション
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画商の力

 画商になりたいと思ったことがあった。東京・銀座の現代美術を扱う画廊を若い頃よく見て回っていた。一つ気になる画廊があった。ギャルリームカイという小さな画廊。ジャスパー・ジョーンズと一緒に熊谷守一(以下、熊谷)の作品も扱っていて、アメリカの前衛と画壇の古風な香りが同居したこの画廊の作品の組合せに戸惑った。画廊の主宰者である向井加寿枝さんは、どう見ても絵を買いそうな客ではない私に熱心に絵について話してくれた。ありふれたモチーフの熊谷の作品が不思議と斬新な作品に見えてきた。誰が見てもわかる花や蝶、蟻などシンプルな絵柄。軽やかでありながらどっしりとした品のある味わい深い作品であることがわかってきた。だが、刺激の強いPOPアートなどに目が行き、それ以上踏み込まなかった。向井さんは1914年岡山の寺院に生まれ、画家を志していたが、戦後藤田嗣治に画商の基本を学び1959年銀座に画廊(ギャレリーポアン。後にギャルリームカイに改称)を開廊した。熊谷の作品《朝露》(1950)を銀座のウインドーで一目見て感動し、すぐ熊谷を訪ねたという行動派のギャラリストである。世界に誇れるたった一人の日本人の画家として、パリで熊谷展を開催させた人でもあった。

布張りの図録

 ギャルリームカイはもうその場所にはない。挑戦的な試みがなされていると向井さんが語った熊谷作品は、未だ未消化のまま私の記憶に残っていた。「没後30年 熊谷守一展 天与の色彩 究極のかたち」がその記憶を呼び起した。展覧会は見られなかったが、2008年に埼玉県立近代美術館で開催された大規模な個展をここで開催するとは実は意外な感じがした。現代美術の展覧会で何度か訪れていた美術館だったからだ。熊谷芸術、その奥深さを解明していくときがきたのかもしれない。この展覧会を企画した人はどのような人なのか、と関心をもった。企画者の心意気を感じる布張りの表紙に猫がデザインされた図録には企画・監修、天童市美術館学芸員の池田良平氏(以下、池田氏)とある。おそらく新しい熊谷の見せ方を模索したにちがいない。犬より人に迎合しない猫が好きだったという熊谷の数ある《白猫》の中から、愛知県美術館が所蔵する心地よさそうに寝そべる《白猫》を探求の対象に選んで、山形の天童市美術館を訪ねることにした。

熊谷守一展示室

 将棋の駒で有名な天童は、東京から山形新幹線つばさ号で約3時間。東京は快晴だったが、天童は前夜から降り出したという雪がしんしんと降り続く銀世界だった。JR天童駅から天童市美術館までは徒歩10分ほどだが、この日は20分。ここには熊谷コレクションがある。美術館2階の熊谷専用の村山祐太郎記念熊谷守一展示室には18作品が展示されていた。初めて会った池田氏は背の高い誠実そうな人だった。山形県には県立の博物館はあるが美術館はないと教えてくれた。1990年天童市美術館のオープン当時は、県内初の公立美術館として注目されたそうだ。子どものころから博物館に行き、物を調べて理解する学芸員にあこがれていたという池田氏は、高校時代から理科系に進学し、山形大学の理学部生物学科に通った。家に絵画がある環境で育ち、友達とシュールなマグリットやH・R・ギガーの画集などを見て美術への関心を広めていった。池田氏にとって天童市美術館学芸員は適職のようだ。美術館の開館と同年に就任し、自然な受けとめ方で「これからこれを考えるのか」と、初めて熊谷作品に出会った。天童市出身の実業家・村山氏が収集していた熊谷作品の寄贈を得て、熊谷作品は現在100点以上(うち油彩画は13点ほど)、そのほか天童ゆかりの作家、今野忠一(日本画)や豊田豊(彫刻)、歌川広重など、美術館の収蔵品は約600点。現在学芸員は2名で、池田氏が作品の撮影を行ない、4×5カラーポジフィルムで管理し、ファイルメーカーで収蔵品管理のデータベースも構築している。著作権に関しては著作権者と連絡を取り注意して進めており、作品画像の公開は館内・館外ともにこれからである、と言う。

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熊谷守一《兎》と池田良平氏 

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