アート・アーカイブ探求
俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」
影山幸一
2009年04月01日号
性の隠喩
700kgもの巨大な赤提灯が下がっている東京・浅草の雷門。日本の顔として世界的にも知られた名所である。昨年の暮れ宵闇時分に立ち寄ってみたのだが、高さ約4メートルの提灯の右には風神像、左には雷神像がにらみを利かせていた。雷門を正式には“風雷神門(ふうらいじんもん)”というそうだ。門は天慶5(942)年平公雅(たいらのきんまさ)によって創建(寛永12年の説もある)され、以降3回炎上している。現在の門は松下電器創始者の松下幸之助氏が昭和35(1960)年に95年ぶりに再建した。風神雷神像は、鎌倉時代から安置されていたと伝わるが事実は不明である。しかし慶応元年(1865)の大火のときに二神像の頭部のみが救い出された記録があり、その後明治7(1874)年に仏師・塩川蓮玉が胴体を補刻し、昭和35(1960)年に森大造と萩原雅春が修補彩色して現在に至っている。時代を超えて受け継がれ、庶民の喜怒哀楽、悲喜こもごもを見晴らす風神雷神像は、庶民の守護神であり続けてきたのだろう。
雷も風もあまりありがたいものではない。鬼に化けた神様は、天災からの除難や五穀豊穣など、祈願の意味が彫刻に込められているそうだ。高さ2.3mの鬼の姿には恐れおののくが、俵屋宗達の絵に《風神雷神図屏風》があることを思い出した。宗達の代表作であり、ダイナミックでユーモラスな風神雷神である。2008年7月の洞爺湖サミットでは、会議場に複製が展示された。世界にも知られた国宝はどのような絵なのか。
驚いたことに風神雷神を性の隠喩ととらえた美術史家がいた。自然現象を神格化した二神から農作物の豊穣を連想し、性をとらえた。そうかもしれない、しかしそうなのか。東京大学大学院人文社会系研究科教授の佐藤康宏氏(以下、佐藤氏)である。聖なる神を性と結び付けた佐藤氏とはどのような人なのだろう。東京大学の赤門に近い研究室を訪ねてみた。
建仁寺の空間
佐藤氏は、1955年宮崎県生まれ。東京国立博物館、文化庁を経て現在に至っている。放送大学でも日本美術史を教えており、与謝蕪村、曾我蕭白、伊藤若冲などについての著書がある。子どもの頃はマンガ家に憧れた時があったそうだ。美術史に進学時にはイタリア語を学びヨーロッパ美術を目指していたが、日本美術のほうが調べやすく楽なほうにきてしまったとほほえむ。「源氏物語絵巻」研究で知られる東京大学名誉教授の故秋山光和からも影響を受けたと言う佐藤氏。
さっそく風神雷神を性の隠喩と見立てた背景を伺ってみた。それは故相米慎二監督の映画「ラブホテル」(にっかつ, 1985)に出てくる部屋の壁に描かれた風神雷神の絵のコピーがもとだった。「風神と雷神のように嬉戯する男と女」の場面にカメラが不意にその風神雷神を映し出したという。性表現に風神雷神を起用した相米監督の感性を、佐藤氏のセンサーが素早く感知した。
俵屋宗達の《風神雷神図屏風》は現在京都の建仁寺が所蔵する。建仁寺は、祇園町の中央にある花見小路の突き当りにある京都最古の禅寺である。花見小路の角にはお茶屋の一力があり、夜の顔を持った通りに沿って都をどりの舞台になる祇園甲部歌舞練場、場外馬券売り場などが、違和感なく秩序を保った参道のように軒を連ねていた。《風神雷神図屏風》の安息の適地に思えた。《風神雷神図屏風》の原物は京都国立博物館に保管されており、常時見ることはできないが、建仁寺には陶板でできたレプリカと、デジタルアーカイブによってリアルに再現された屏風型のレプリカがあり、これらはつねに見ることも写真を自由に撮ることもできる。建仁寺は鎌倉時代の建仁2(1202)年に栄西禅師によって開創した臨済宗の寺で、宇宙の根源的形態を示す、水火地を象徴した「○△□乃庭」という庭や茶室、天井画、襖絵など、見所も多く、今も禅の道場でありながら開放的な空間が広がる。
佐藤氏は学生の頃初めて《風神雷神図屏風》を京都国立博物館で見たと言う。その時は画集などで事前に絵を見て知っていたこともあり、感動というよりも確認した感じだったそうだ。