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アート・アーカイブ探求

吉原治良《黒地に赤い円》──無限に複雑なイメージ「乾 由明」

影山幸一

2009年08月15日号

※《黒地に赤い円》の画像は2009年8月15日から一年間掲載しておりましたが、日本美術家連盟との規約による掲載期間が終了しましたので削除しました。

60年代の関西アートシーン

 画面の中央にまん丸の円を大きく一つ描いた単純明快な絵がある。見た瞬間に理解できた気持ちになり、見過ごしてしまうような作品だ。作者は、具体美術協会(以下、「具体」)を結成し、戦後日本の前衛美術をダイナミックに切り開き、先導してきた吉原治良である。芸術の先駆集団であった「具体」リーダーとしての功績は語られることが多いが、吉原の作品については盲点となっていたのではないか。2005年から2006年にかけて大阪・名古屋・東京・仙台と巡回した大規模な個展があったものの、改めてそんな思いが湧き上がり、絵描きとしての吉原治良の代表作《黒地に赤い円》(1965, 兵庫県立美術館蔵)を正面に据えて鑑賞することにした。
 「円シリーズ」のなかから吉原の地元である兵庫県に保管され、なおかつ吉原の意志が感じられる作品を選んだ。調べて見るとすでに関西を中心とする美術館の学芸員が集い「吉原治良研究会」ができており、吉原の作品を収集している美術館が大阪にあることもわかってきた。吉原は今も関西で愛されていたのだ。
 熱気ある1960年代の関西のアートシーンや吉原を知る人に《黒地に赤い円》の解説をしてほしいと思った。元京都国立近代美術館の学芸員で、吉原治良のアトリエを訪問するなど、当時吉原と身近だった乾由明氏(以下、乾氏)に取材することができた。乾氏は現在、兵庫陶芸美術館館長を務める美術評論家で今年82歳になる。7月の終わり、夏休みに入ったというのに梅雨の明けない関西、JR大阪駅から1時間30分ほど兵庫県篠山、緑の濃い丹波焼きの里にある兵庫陶芸美術館に向かった。

純粋化

 乾氏は、長年京都大学教授としてフランスを中心とする西洋美術の研究をする一方で、日本の近現代美術や現代陶芸について評論活動を行なってきた。特に関西において1962年頃から「具体」の先駆的意義を評価し、1967年には全国版の雑誌にいち速く吉原の記事を書いている。吉原治良を発掘したひとりである。1972年に吉原が67歳で亡くなるまでの晩年10年間は、20歳以上の年の差を超えて公私ともに親しくしていたそうだ。乾氏は、事実を基に、その作家や作品がわれわれに対して語りかける本質的な意味が何であるかを考え、目に見えるものから、その根底にある目に見えない論理的な世界の仕組みをとらえようとしてきた。
 “具体”の名は、「私たちの精神が自由である証を、具体的に表現する」ところからきており、また「具体」は『具体』という協会の機関誌を編集・発行し、海外にも発送してフランスの美術評論家ミシェル・タピエを招聘。「具体」は直接、海外に紹介されていった。
 乾氏が吉原の作品を最初に見たのは、1962年大阪・中之島にあった「具体」の本拠地である展示館「グタイピナコテカ」が開設された頃だと言う。今までの絵画の常識とはまったく違った「なんだこれは」というほどのショックを受けたそうだ。ジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグなどの作品が紹介されてきた頃で、吉原の作品は、まだ円になる前のアンフォルメル風の作品だった。激しい絵具のタッチ、絵具の生な物質感を表現したその作品は、マチスなど、西洋の新しい作風が好きだった乾氏に強い感動を与えたと言う。
 吉原は“物質”という言葉を使っていたそうだ。「物質は人を偽らない」と、もの派に通じる言葉をすでに語っていた。デ・キリコやピエト・モンドリアンを経て、吉原の表現は徐々に均質な色面で明快な形になっていった。そのアンフォルメルから物質感を除去して、円への変化が鮮やかだったと乾氏。「ある意味両極端。生の絵具そのものから今度はそれらを捨てて、形と色だけの純粋な世界をつくる仕事になった。人によっては変わり身が早いという印象もあるが、私は驚くと同時に仕事のつながりを感じ、その必然性があるように思えた。絵画というものを、原初的な絵具の次元まで引き下げてやったからこそ、そこからまた純粋化して独特の作品になった」。円に行きついた吉原、その道筋に乾氏は惹かれていった。

*:1955年1月創刊以降、1965年10月発行の第14号まで、計12冊(10号と13号は欠号)。2009年秋、藝華書院より復刻版が刊行予定。

乾 由明氏
乾 由明氏

  • 吉原治良《黒地に赤い円》──無限に複雑なイメージ「乾 由明」

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