2018年01月15日号
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アート・アーカイブ探求

萬鉄五郎《裸体美人》──縄文的斜めの前衛「千葉瑞夫」

影山幸一

2010年04月15日号


萬鉄五郎《裸体美人》 1912年, 162.0×97.0cm, キャンバス・油彩, 重要文化財, 東京国立近代美術館蔵
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東北のにおい

 実体のない不安定さやはかなさを表出している現在のマイクロポップに潜む浅略にフラストレーションを感じ始めたが、それとは対極にある絵が萬鉄五郎の《裸体美人》(1912年, 重要文化財, 東京国立近代美術館蔵)であろう。ざっくりとした野性味のある肉厚なタッチ、インパクトの強いヌード絵画として記憶に残る作品だ。しかし絵を学んだというこの画家のこの下手さ加減はいったいどこからくるのだろう。漫画の吹き出しのような形をした赤い雲が象徴する不自然な絵。絵画を純粋に探究する萬の強い精神力は分かるが、ほかに何が秘められているのだろうか。軽く見えて意味深いマイクロポップの時代、ウイットに富むこの絵の重力を対立軸として認識しておく必要があるように思える。
 《裸体美人》はどこか萬の故郷、東北のにおいがする。萬鉄五郎の生誕の地である岩手県花巻市東和町土沢には、萬鉄五郎記念美術館があると知った。そこで館長の千葉瑞夫氏(以下、千葉氏)に、萬の代表作である《裸体美人》について話をお伺いしたいと思った。萬の世界を実感するために、地元で萬を研究している人に会ってみたかった。
 なぜか萬の墓所は東京・品川の妙光寺にあり、そこに眠る萬にお参りしてから岩手へ向かった。東北自動車道で約6時間30分、桜が咲いた東京を出発したが、東北はまだ小雪が舞っていた。外気温度はちょうど0度。宿に向かう途中の道で、車にひかれていたのはたぬきだった。

千葉瑞夫氏
千葉瑞夫氏

岩手国体

 花巻市が運営する萬鉄五郎記念美術館は、2006年(平成18)の合併までの約20年間は東和町立であった。萬の育った土沢を見下ろす舘山の中腹にあり、土沢城址に立っている。美術館に隣接する「八丁土蔵」は、かつて萬家にあった蔵を移築し、ハイビジョンシアターと喫茶室になっている。温和な印象の千葉氏へのインタビューはここで行なわれた。1991年から既に19年間館長を務めている千葉氏は、1931年宮城県仙台市に生まれた。子供時代は父親の仕事により、東北各地を転校しながら過ごしたが、本籍地は中尊寺と毛越寺のある岩手県平泉町だそうだ。旧制の一関中学校を卒業し、音楽が好きでラジオ局への就職を志望していたが、盛岡の岩手日報社という新聞社に欠員が出たとき、報道部長に声を掛けられ働き始めることになった。1954年23歳で新聞記者となり、社会部、学芸部などのほか、久慈支局長、一関支社長を務め、1991年の定年までを過ごした。美術とは学芸部の時に、縁ができたという。
 千葉氏が萬鉄五郎と深く関わるようになったのは、岩手国体からだそうだ。1970年第25回国民体育大会が「誠実 明朗 躍進」をスローガンに岩手県で開催された。岩手日報社は県の委託を受けてこの国体の文化芸術プログラムの展覧会を開催することになった。岩手の美術を展示するにあたり、上司は必ずしも一流とはいいがたい作家たちの名を挙げた。千葉氏はこれに猛反発した。「国体の記念展となれば全国から人々が訪れ、その中には絵を見る目を持った人もいる。そういう方にもっとちゃんとした作家の絵を見せるべきだ。岩手には萬鉄五郎をはじめ、松本竣介や舟越保武などがいるじゃないか」と。よかったのか、悪かったのか、そんなに言うならやってみろということになった。しかし、萬の作品は県外に流出してしまっており、思うように作品は集まらなかった。

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