会期:2024/03/15~2024/06/09
会場:横浜美術館+旧第一銀行横浜支店+BankART KAIKO[神奈川県]
公式サイト:https://www.yokohamatriennale.jp/2024/

内覧会で横浜美術館のグランドギャラリーに足を踏み入れたとき、「これはひどい」と思った。できそこないのハリボテやガラクタが並び、わちゃわちゃと騒がしくてまるで学園祭のようだったからだ。なんでこんなにひどいのか、それともぼくが時代についていけてないだけなのかと訝しみつつ、なるべく丁寧に解説を読みながら見ていくと、いやそれなりにちゃんと筋が通っていて、展覧会としてはけっこうおもしろいんじゃないかと思い直した。これはもう一度しっかり見ておこうと再び訪れた次第。


第8回横浜トリエンナーレ 横浜美術館グランドギャラリー 展示風景[筆者撮影]

グランドギャラリーで「トゥルルルー」とか「ヴィーーーン」といった騒がしい音を立てていたのは、ウクライナのオープングループによる映像作品。ウクライナ市民が戦闘機や迫撃砲、避難サイレンの音を口真似し、観客に向かって繰り返すように促しているのだ。兵士ではなく市民が戦争を擬音化し、それを観客に追体験させることで戦場をこちら側に突きつけてくる。

会場の何箇所かに設えたプロジェクターにデモの様子を映し出すのは、スロバキア出身のトマス・ラファ。デモは反戦や環境問題や人種差別反対などさまざまだが、カメラはデモに抗議する反対派や警察官の姿も捉え、どちらにも与しない。そのプロジェクターの下には透明なビニール袋に入れられた人形が横たわっている。アメリカ出身のジョシュ・クラインの作品で、AIの発達により仕事を奪われて捨てられた弁護士や銀行員、秘書といったホワイトカラーの遺骸だそうだ。


第8回横浜トリエンナーレ 横浜美術館 展示風景
上:トラス・ラファ作品 下:ジョシュ・クライン作品[筆者撮影]

長大な画面に数百個もの箱のような白い四角形を描いたのは、オーストラリア先住民族のマシュー・ハリス。博物館の保管庫に並ぶアボリジニの資料を収めた箱だそうで、彼らはこれら資料の返却を求めているのだ。正方形の展示室には簡易2段ベッドが並び、古着やガラクタが置かれ、拙い絵やメッセージの書かれたボール紙が掲げられている。台南を拠点とする你哥影視社(ユア・ブラザーズ・フィルムメイキング・グループ)によるインスタレーションで、台湾の工場で働くベトナム人女性たちが寮にこもってストライキした場を再現したもの。労働争議の場がアナーキーな解放区として活性化していく過程が追体験できる。


第8回横浜トリエンナーレ 横浜美術館 展示風景
你哥影視社(ユア・ブラザーズ・フィルムメイキング・グループ)《宿舎》[筆者撮影]

絵画は少なく、あっても芸術性によって選ばれたというより、困難な状況下におけるやむをえない表現を集めたって感じだ。ベルギー出身のステファン・マンデルバウムは、ナチスによるホロコーストを生き延びた家庭に生まれ、パンク、ギャング、ユダヤ人、フランシス・ベーコンなどの人物を中心に描いたが、次第に犯罪に手を染め25歳で殺害されたという。コソボ出身のアルタン・ハイルラウは、紛争の経験からありあわせの包装紙に色鉛筆で日常生活を描き、手づくりのボール紙の額で縁を囲んだ。ほかにも、文化大革命の最中に風景や自画像を描き続けた中国の趙文量(ジャオ・ウェンリアン)や、H・R・ギーガーのようなグロテスクな生命体を表したドイツのシビル・ルパートなど、アウトサイダー系の作品が多い。

いずれも初めて知るアーティストばかりだし、作品の芸術的価値も怪しいものだが、解説を読んで個々の背景を知りながら見ていくと、それぞれかけがえのない作品に思えてきて、これまで自分の信じてきたモダニズムの価値観が徐々に揺らいでくる。その意味では作家・作品のセレクションおよびコンビネーションが絶妙なのだ。よくぞこんな知られざるアーティストを見つけてきたなと思うし、よくぞこんなに大胆な展示が実現できたなと感心する。

たとえば、アメリカのタバコ「マルボロ」の広告のために撮影されたカウボーイの写真の下に、インドの片田舎の貧しい生活を描いた木版画を並べている。どちらかひとつだけではおもしろくもないし、なぜここにあるのか理解できないが、両者を上下に配置することでふたつの世界の対比が鮮明に浮かび上がってくるのだ。


第8回横浜トリエンナーレ 横浜美術館 展示風景
上:アメリカのノーム・クレイセンによる広告写真 下:インドのトレイボーラン・リンド・マウロンによる版画[筆者撮影]

今回のテーマは「野草」。魯迅の詩集から採られたものだが、その魯迅の提唱した「木刻運動」が同展のもう1本の柱として機能している。木刻運動とは20世紀前半に中国の近代化と独立に向けて進められた、民衆芸術としての木版画運動のこと。その先駆者たちの作品をはじめ、彼らに影響を与えたケーテ・コルヴィッツの《リープクネヒト追悼》、木版画を通じて日中交流を進めた李平凡、満州で育ち民衆版画を手がけたこともある富山妙子の小回顧展、先のインドの生活を描いた作品も含めて要所要所に木版画が展示され、芸術と社会について考えさせる仕組みになっているのだ。うまくできているなあ。個々の作品はともかく、展覧会としては横トリ史上最高かもしれない。キュレーションの勝利といっていい。

今回のアーティスティック・ディレクターは、北京を拠点とする劉鼎(リウ・ディン)と盧迎華(キャロル・インホワ・ルー)のふたり。近年、日本に限らず国際展のディレクターにアジア系のアーティスト・コレクティブが選ばれることが多くなった。ディレクターといえば欧米の白人男性がほぼ独占していた20世紀を思うと隔世の感がある。日本でもついひと昔前までは自国の男性キュレーターの独擅場だったのに、ここ数年のあいだに女性が増え、外国人に任せる例も珍しくなくなってきた。とりわけ横トリは2回連続でアジアのコレクティブに指揮を任せている。変化がドラスティックすぎるとも思うが、一種のショック療法として効き目は大きい。

特にこれまでの欧米の美術史観にどっぷり染まってしまったぼくのような20世紀人には、今回のようなモダニズムから大きく外れる作品たちは、興味本位でおもしろがることはできても、芸術として評価する気にはなれない。だが一方で、彼らが示すアートマーケットやエンタテインメント志向への反発には共感を覚える。図式的にいえば、冷戦時代の国際展は芸術的価値を追求し、それに市場価値がついてきて、社会的価値はおろそかにされてきたが、現在はその反動で社会性が前傾化し、芸術性と市場性が後退していると見ることができる。でもね、いずれその反動で再び逆転し、芸術性を至上の価値とする日が来るんだよ。

鑑賞日:2024/04/12(金)