[京都府ほか]
わたしは24歳まで展覧会を見たことがほとんどなかった。京都に進学するとべらぼうにギャラリーと美術館があり、電車に乗れば数百円で簡単に府県を越えられて、浴びるように展覧会や作品を見ることができた。それがとにかく嬉しかったから、各々の表現を、作品を見せようとしてくれる展覧会につねに感謝していた(いまもそれは変わらない)。だから、自分が企画した座談会★1で上崎千や石岡良治がロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェッティ》を大きな達成と位置づけて「ポスト展覧会」について語ることに、美術史的な意義を理解しつつも気持ちが乗らなかったことを、いまも覚えている。
具体的にこの座談会で槍玉に上がったのは、作品以上にインハウスキュレーターだと思う。作品を並べる展覧会という形式はかれこれ数百年と続いていて、その設備や組織と結びついて生まれた(インハウス)キュレーターは、その組織のために芸術や思想を官僚主義的な檻に嵌める手先というわけだ。だから、ここでの「作品が並んでいるだけの展覧会をなぜいまも繰り返すのか」という問いは、展示空間にフィットした(展示空間に収まることを志向した)作品自体をそもそも拒絶するものであり、同時に、展示にフィットしない事物をむりやり展示可能にする行為としてのキュレーションへの非難である。もちろん、ボリス・グロイスが指摘するとおり、現在のミュージアムは限りなく流動的だ。企画展が中心であり、そこであらゆる立場の現代美術におけるキュレーターは目の前にいる作家の作為が叶えられるべく、金銭面であったり、具体化するための事物の手配、膨大な折衝、アイディア出しなど、それぞれのあり方や適正に応じて協働する(作家の末長い制作が続くことを願いながら)。謝金を払って作品を持ってくるだけではない。
ここからはキュレーションというよりも作品への判断の基準なのでそれぞれであるが、ある種の作品は着想時がもっとも完璧なのだ(コンセプチュアリズム)。また、それが受肉していくなかで思わぬ形を結んでいくことも(プロセス)、着想を超えて造形していくことも(「アンチ・コンセプチュアリズム」)、これ以上なく尊い。過去作という事後であれ、新作の過程であれ、キュレーターはこの「形」に関わることになる。キュレーターとはどこに立とうとしているのかがつねに問題なのだ。中間管理職的であることは疑いようがないが、それでこそなお。
かつて、わたしにしたらホワイトキューブは自由な場所だった。京都市立芸術ギャラリー@KCUAの「PLAY HARD!」で2014年に開催された「闇投3─THROW IN THE DARK Ⅲ」というイベントがあった。これは完全に真っ暗なギャラリー内にドラムが鳴り響くと同時にストロボが発光するなかでクリームパイを投げ合うというものだ。角田広輔によるストロボと連結したドラムを三木章弘が叩き、入り乱れる参加者の様子をAT PAPER.が撮影することで即座に記録していく。パイ投げの周囲は網で仕切られているだけだから、観賞者にもクリームが飛散する。
イベント後は参加者全員で片付け。「創造のほとんどが遊びに由来するのであれば」ということで実施された本展とこの企画は、芸術をあらゆる行為へと結びつけて考えることができるようになる実践だった。企画文にNICK TRAUFなる人物の言葉の引用として書かれていた「自分のケツは自分で拭け」という言葉は、企画者である森山貴之によるもので(NICK TRAUFとは、FUCKIN ARTのアナグラムだった)★2、キュレーターないしプロジェクトを起こしたものとアーティストの位相の類似性と非対称性が浮かび上がるフレーズだろう。キュレーターが作家に「自分のケツは自分で拭け」というなら作家を引っ張り出してきておいて無責任としか言いようがなく、キュレーターが自身に向けて言うならば、自分が何を始めたのかを理解することなんて誰もできないけどそうしないと何も始められないという覚悟の言葉に変わる。
京芸transmit program #5「PLAY HARD!」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2014)[筆者撮影]
★1──トークイベント「肌理と裂け目」(2016年10月9日)。詳細は『パンのパン01』に掲載。
★2──三中雄太「京芸Transmit Program#5『PLAY HARD!』《三木章弘+角田広輔》角田広輔, 《MONGO TARDIO》, 《AT PAPER.》」(『HAPS PRESS』、2014年7月9日公開)
(「キュレーションと「形」に関わること②」へ)
執筆日:2024/04/30(火)