発行日:2020/03
発行元:九州大学出版会
公式サイト:https://kup.or.jp/booklist/hu/history/1280.html

本書は第一次世界大戦後の世界で生まれた地政学が、どのように戦時体制下の日本で受容され、アジア太平洋戦争や各地の植民地政策に影響したか、戦後日本のアカデミアにおける地政学への反省と批判、そして地政学の今日の展開までを論じている。

本書の冒頭で触れられているように、地政学を冠した一般書は近年増加している。日本でのそれは主に東アジアの緊張状態を踏まえて侵略“される”ことへの警鐘を鳴らすという主旨のものが多い。しかし本書が検証する20世紀の地政学を知ることは、ロシアによるウクライナへの侵略、イスラエルによるパレスチナの支配や虐殺といった、国境を越えてなされる暴力──現在にまで続く植民地主義や帝国主義──を考える一助となる。それはむしろ侵略“する”ことを推し進める論理を、あるいはその論理がいかにして実行へ至るかを考えることでもある。

序章では本書の背景や研究のフレームワークが示される。戦時体制下の日本で「形式地政学」「実践地政学」「大衆地政学」と異なる水準での実践へと地政学が変化し、それらが侵略戦争や帝国主義・植民地主義のイデオロギーとして、報道や社会制度を通じて国民へ向けて展開したことを指摘する。

〈第一章 地政学の成立と展開〉では地政学の起源をチェレーンに認めつつ、マッキンダー、マハン、ハウスホーファーらの理論を概説していく。また英米における地政学(Geopolitics)と後に日本が強く影響を受けるドイツの地政学(Geopolitik)の違いをはじめ、地政学という語の定義の揺れを細かに検証する章でもあるため、地政学をこれから学ぶ際にも役立つだろう。

〈第二章 日本における地政学の受容〉以降、「日本における地政学の受容と展開」が具体的に分析されていくが、全体を通じて、学会誌への掲載論文数の調査などデータ分析の側面もある。分析にあたって用いられた論文や書籍名称は多数紹介されるため、本書は読者自身の関心に応じて堀り下げる際のインデックスとしても読むことが可能だ。

筆者が特に興味を惹かれたのは、〈第三章 戦時期における地政学の展開〉のうち〈第四節 日本地政学協会と機関誌『地政学』──地理教師による下からの地政学運動〉〈第五節「ジャーナリズム」の寵児となった地政学〉である。この節に至るまで、アカデミアで検討されてきた地政学が、国家体制や社会制度に影響を及ぼしてきたことが論じられているが、第四節からはまず学会誌や論文集などの変化が、また初等教育を担う教師たちがそれに伴い受けた影響が分析される。第五節ではそれらが雑誌やメディア、教育カリキュラムのなかでどのように受容されていったかが示される。第五節(三)で現われる1943〜44年の国民学校の教科書『初等科地理』からの引用文には、地政学が強化した植民地主義の歪さがあまりに端的に表われており変な声が出てしまった。もちろん、この節に至るまでの分析や検証の積み上げ(そしてその対象たる当時の地政学の展開プロセス)によって、この引用箇所はよく機能している。

〈第四章 戦後における地政学の停滞と地政学批判〉では、終戦直後のアカデミアにおける反省や批判を検証する。また、侵略戦争と地政学の関係が、高度成長期の開発行為と「地域科学」として繰り返されていたことへの論争を取り上げる。

〈第五章 地政学の新たな展開と日本の例外主義〉では、欧米各国の批判的地政学の動向や、フリント『現代地政学』の概要が紹介される。前者では欧米の植民地主義がどのようなものであるかが端的に示され、後者では多分野の議論と地政学がどのように交差するのかが例示されている。改めてここまでの章(つまり20世紀までのさまざまな歴史的事実)を読み直す際に留意すべきポイントが明らかになる章でもある。

ある学問領域それ自体の変遷を追っていくことで、地政学そのもののことだけでなく、言説や思想をめぐる制度や構造の問題がよく伝わる本だった。さまざまな領域の実践者と一緒に読み進めることで、重要な交差が見つかる可能性は高い。読まれた方がいたら、気になったところをぜひ教えてください。


[補記]
本書で言及される書籍のうち、筆者が以前に読んでいたのは『マッキンダーの地政学─デモクラシーの理想と現実』(原書房、2008)のみである。読んだ当時、マッキンダーの提唱した「ハートランド」という世界の概念化が、世界史の疑問への答えのように感じられたのは否めない。ゆえに、本書を読み進めることで、主義や論理がどのように具体的な言説として社会へ届き、また個人へ内在化していくのか少しずつわかってきた。また、北川眞也『アンチ・ジオポリティクス─資本と国家に抗う移動の地理学─』は、〈第五章〉で言及される批判的地政学の最新の姿であり、社会に内在化する地政学の論理を解体していくうえでも重要な一冊だ。本書と合わせてお薦めしたい。

執筆日:2024/05/20(月)