会期:2024/01/20~2024/05/06
会場:豊田市美術館[愛知県]
公式サイト:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/wunderkammer/?t=2024

会期中、豊田市美術館の隣に豊田市博物館が開館することを契機に、ミュージアムの歴史的経緯への批評から出発し、「周縁」から眼差すメタ・ミュージアム論へと開いていく企画展。企画は元同館学芸員の能勢陽子。

タイトルの「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」は、15世紀のヨーロッパで作られ始め、絵画や彫刻のほか、動物の剥製、角や卵、貝殻、植物標本、鉱物(の加工品)、地図や天球儀、東洋の陶磁器など、王侯貴族や学者たちが世界中から収集した美しいものや珍奇な品物を陳列した部屋である。ミュージアムの原型であり、大航海時代以降、収集の財力を支えた植民地主義、白人男性中心主義、異文化への一方的な好奇の視線といった構造的問題をはらむ。本展では、メキシコ、ロシア連邦内の共和国、東アジア、ベトナムと、「周縁」にルーツをもつ作家5名を通して、脱中心化や歴史の再編が提示される。

メキシコ出身・在住のガブリエル・リコのインスタレーションでは、南米先住民の神話に登場するウサギや鹿の剥製と、三角形や円の幾何学形態が対峙。宇宙の法則やエネルギーの可視化を思わせる幾何学形態は、ネオンや鉄など工業製品でできている。「メタ・ミュージアム」という本展の視座から見ると、「伝統(的と見なされる)文化の洗練と現代的アップデート」「自然を飼い慣らす」というミュージアム像が批判的に浮かんでくる。

ガブリエル・リコ 展示風景[撮影:ToLoLo studio]

鉱物の採掘というテクノロジーと産業の観点から、SF的な想像力を交えた壮大な人類史を描くのが、田村友一郎とリウ・チュアン。田村の映像インスタレーション《TiOS》は、骨と結合する性質を持ち、インプラントに用いられるチタンを起点に、連想の網を広げていく。チタン製のゴルフクラブを「巨大生物の骨の化石」として宇宙人が「発見」する未来。直立歩行の猿人の骨、猿真似、AI、人工の自然であるゴルフ場、チタンが使用されたスマホを連結したUFO、ビートルズ……。人間と機械が融合し、人工と自然が区別不能になった未来を「想像してみて」と、AIで生成したジョン・レノンの声が語る。

田村友一郎《TiOS》(2024)より[撮影:ToLoLo studio]

また、リウ・チュアンの映像作品《リチウムの湖とポリフォニーの島Ⅱ》は、劉慈欣のSF小説『三体』を起点とする壮大な叙事詩。地球と人類の情報を積み込んで宇宙を旅するボイジャー探査機のゴールデンレコードは、「生物は自分の住処を補食者に教えない」という自然原則に反し、宇宙からの侵略者を招く危険性がある……。ここからリウは、「空や海に留まる鳥やクジラと異なり、地上に降りても歌を歌う生物は人間だけである」ことに着目。「モノフォニー(単旋律)からポリフォニー(多声音楽)へ」という西洋音楽の発展史観とは異なり、人類史はポリフォニーが先行し、国家権力やグローバル経済の拡大とともにモノフォニー(単一の声)に独占されていくことが、洋の東西をまたぐ壮大なスケールで語られる。グローバル経済を象徴する2つの鉱物資源が、16世紀に南米の植民地で採掘された銀と、同じ経路を辿る現代のリチウムだ。一方、映像の随所には、さまざまな少数民族が歌うポリフォニックな歌唱が挿入され、多声的な世界への希求が音響的に示される。

リウ・チュアン《リチウムの湖とポリフォニーの島Ⅱ》(2023)[撮影:ToLoLo studio]

そして、「メタ・ミュージアムと(英雄化された)男性の彫像」という点で共鳴するのが、タウス・マハチェヴァとヤン・ヴォーだ。マハチェヴァは出身地のモスクワが拠点だが、ロシア連邦のダゲスタン共和国にルーツをもち、祖父は同共和国の国民的詩人ラスール・ガムザートフである。映像作品《Цlумихъ(アヴァル語で「鷲にて」)》では、ダゲスタンの険しい山の上に仮設のホワイトキューブが設置され、さまざまなガムザートフの胸像が「搬入」され、「展示」される。「威厳に満ちた慈父」の容貌をもつ胸像たちの集合体は、「国民の父」として形成されたイメージの流通が国家アイデンティティの礎であることを示す(設営スタッフの肉体労働者たちも彼の詩を暗誦しており、「言葉があるのに、なんでこんなに彫像が必要なんだ?」という皮肉なつぶやきが漏れる)。後半、胸像が「搬出」され、天井が取り外された空間は、作家自身が祖父の衣服を着用し、公的に鋳造された祖父のイメージを、自らの記憶と身体を通して生き直すための「舞台」となり、最終的に解体される。

タウス・マハチェヴァ《Цlумихъ(アヴァル語で「鷲にて」)》(2023)[筆者撮影]

タウス・マハチェヴァ《Цlумихъ(アヴァル語で「鷲にて」)》(2023)

タウス・マハチェヴァ《Цlумихъ(アヴァル語で「鷲にて」)》(2023)

また、幼少期に家族とともにベトナムから逃れたヤン・ヴォーは、これまで、ミュージアムの偽装空間に、古代の大理石彫刻の断片、輸送用クレートや箱、ベトナム戦争に関連する事物などを再配置。仮設性、輸送や移動、隔離、移民・難民、アイデンティティの継ぎはぎ、傷と修復を示唆し、抑制された美学のなか、大文字の歴史を語る権力装置としてのミュージアムの解体と、そのひび割れに個人の生や記憶を差し挟んできた。本展では、木製の骨組みだけが露になった仮設の展示空間を、入れ子状に設置。展示されるのは、街の花屋で売られる美しい花の写真だ。写真の下には、作家の父親が手描きした花の名前が美しいカリグラフィで添えられる。美しく珍しい異国の植物は、帝国主義的欲望と密接に関係し、商品価値が航路の開拓や流通経路を生み、「命名と分類」という自然の秩序化がここではグリッド構造として可視化され、仮設性や牢獄の檻のような外観は、難民収容所や隔離施設をも示唆する。

ヤン・ヴォー 展示風景[撮影:ToLoLo studio]

そして、この擬似ミュージアムの中央に置かれるのが、紀元前ローマ時代の、脚だけが残った男性の大理石像だ。その「欠損」は、本展における「ヨーロッパ白人男性の身体」の不在とメタ的にリンクし、多義的な意味を差し出す。それは、これまで透明化されてきた権力の中心であり、「世界を眼差す主体」として、自身は決して(好奇の、あるいは性的な)眼差しの対象とはならないことそれ自体の可視化である。ただし、「グリッド/檻」という構造的基盤が露にされたホワイトキューブの中央に、台座から降ろされても、補助具の力を借りて、なおも残存し続ける。何が彼の脚をまだ支え続けているのか? あるいは、「若く力強い男性像」が「眼差してはいけないもの」として禁忌の対象となり、消去されるのは、どのような理由によるのか?

ヤン・ヴォー 展示風景[撮影:ToLoLo studio]

さらに、「脚だけの彫像」と、取り囲む「切り花」が、「断ち切られている」という共通点に目を向けてみよう。「属していた文脈からの切断」は、ヴンダーカンマーおよびミュージアムの原理であり、故郷から強制的に切り離された難民の生とも重なる。

また、作品タイトルの由来を知ると、また別のミュージアム批評も読み取れる。タイトル《Take My Breath Away》は、アメリカ海軍の協力のもと制作された、トム・クルーズ主演の戦闘機アクション映画『トップガン』(1986)の主題歌に由来する。このことを知ると、「切断された男性の脚」は、爆撃で吹き飛ばされた兵士の脚をも想起させる。「国家に命を捧げた兵士」を英雄化して顕彰する場としての、ナショナリズムの強化装置としてのミュージアム。「英雄化された男性像」の展示を通してナショナルな語りが強化される構造は、マハチェヴァが「国家的詩人の胸像を集合させた、仮設のミュージアム」と通底する。

ただし、マハチェヴァのメタ・ミュージアムが「仮設性」を露にし、最終的には解体されるように、ヴォーにおいても、骨組みだけの構造の露出は、解体と同時に、建設途上の未完状態でもあり、極めて多義的に揺らいでいる。中心/周縁という二項対立を単純に反転させるのではなく(それは周縁の中心化を招き、新たな「周縁」を生産してしまう)、常に揺らぎ続ける危うさとともに思考し続けること。ミュージアムもまた、そのような思考のなかでこそ再考され続けるべきなのだ。

関連レビュー

ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年07月15日号)

鑑賞日:2024/05/06(月)