会期:2024/05/23〜2024/06/02
会場:サブテレニアン[東京都]
公式サイト:https://engekioffton.studio.site/

他者を尊重するとはどういうことか。お布団『破壊された女』(作・演出:得地弘基)はひとりの女が徹底的に消費され、尊厳を剥奪され、破壊されるに至るまでを描いた物語であり、それを語る女についての物語であり、それらの物語を舞台の上に立ち上げる「私」についての物語だ。

舞台に立つ俳優(永瀬安美と村岡佳奈のWキャスト)は「ここに女が、一人、います」と、ある女の経験について語りはじめる。彼女を取り巻く世界の、相互には無関係なように思える無数の悲劇の、物語の断片。「世界のあらゆるところでひどいことが起こっていて、これまでも起こってきて、そして、これからも起こっていきます」。そしてふいに「とてつもなく大きなものが砕けるような音」がする。だがそれでも世界は何事もなかったかのように続いている、ように見える。

やがて女は《彼女》について語りはじめる。徹底的に陳腐で、薄っぺらで、中身のない悪であり、それゆえ多くの信仰者を集めたという《彼女》の物語を。「女は、自分ではない者について語らなくてはいけません。《彼女》には、声がないからです」。そう告げた俳優/女は「それから、今からする話は、本当の話です」という宣言とともに物語をはじめる。

それは絶望以外に何をも感じることのない《彼女》が、虚無から逃れ絶望という快楽を得るために悪の限りを尽くし、やがて多くの使徒を集め、世界を滅ぼさんとする物語だ。だが、すべてが滅ぼうとしたそのとき、現われた勇者たちが《彼女》と使徒らを打ち倒し、世界には平和がもたらされる。しかし物語は終わらない。いや、それは物語ではなく現実であり、だからこそ物語は終わらないのだと女は語りを続ける。悪霊となってこの世に残った《彼女》は再び世界に絶望をもたらし、肉体を得て完全な復活を果たそうと企む。だが、やはり再び、しかし別の勇者たちが現われ、今度こそ完全に《彼女》をこの世から消しさることに成功するのだった。

平和になった世界で、勇者たちの正義の物語を知った人々は、物語の続きを求める。だが、悪たる《彼女》がいなければ正義の物語を紡ぐことはできない。そうして、正義の物語の要請に従って、物語を続けるために《彼女》の存在は搾取され続けることになる。「《彼女》は、肉体も精神も失ってなお、物語を続けるためだけに、希望のための悪を生み出すための母体として使役されます」。

実は《彼女》はゲームのキャラクターなのだが、そう明かした女はすぐさま《彼女》が「私たちの現実に存在する」ゲームのキャラクターなのだと強調する。女は、《彼女》に対する人々のふるまいは「人間ではないモノはどうしたっていい」という意志を肯定するものだと糾弾し、「あなたが人間でなくなることはありませんか?」と問う。

《彼女》は女にとって、ほとんど生きる意味、世界の価値そのものだった。だが、《彼女》に対する人々のふるまいは、その生を否定し、その価値を毀損する。女は《彼女》の存在を信じることができなくなってしまい、つまりは生きる意味を、世界の価値を見失ってしまう。《彼女》が壊れてしまったのとちょうど鏡映しのようにして、女もまた壊れてしまう。もちろんそれでも現実は続いていく。

一方、これらの物語を語る俳優の身体は、ときおり見えない力に打たれたかのように倒れては立ち上がる動作を繰り返している。明白な、しかし見えない暴力。あるいは語りの合間に脈絡なく差し込まれる、カフェやコンビニなどの店員らが発するそれのような定型文は、交換可能な労働力としてのみ人が扱われることの暴力性を示唆するものだろう。小劇場演劇に出演する俳優の多くは、そのような仕事に従事することで収入を補っている。ではそれを強いているのは誰か。物語を求める観客=私もそのひとりであることは間違いない。

物語は「とてつもなく大きなものが砕けるような音」が聞こえても無感動に女が去っていく場面で幕を閉じる。《彼女》は壊され、女は壊された。では「私」はどうか。彼女たちの物語を客席から眺める私はどうか。この世界はどうか。『破壊された女』は全き他者としてのフィクション/キャラクターに対する倫理を問う。それが損なわれることとは即ち現実の倫理が、世界が損なわれることなのだとこの作品は突きつける。では、あらかじめそうなるように書かれたこの作品と、私はどう対峙するべきだったのだろうか。

『破壊された女』は観劇することで起動する罠のようなプログラムだ。これが2019年に初演された作品だということを考えれば、今回の改訂再演自体が『破壊された女』の物語をなぞっていることは明らかだろう。しかもWキャストでの上演である。そもそも演劇という営み自体、繰り返すごとに異なる上演とならざるを得ないという点において自己同一性を解体し続ける営みでもある。キャラクターの同一性の解体は物語の外側にも仕掛けられ、観客は自ずとそこに加担することになっている。初演を観ている私は《彼女》/女/「私」がやがて壊されることを知りながら、それを見るために劇場に足を運んだのだ。せめてそこにある悪を、気持ち悪さを引き受けることくらいはしなければなるまい。

鑑賞日:2024/05/28(火)


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