著者:姜信子、山内明美
発行所:白水社
発行日:2021/12/28
公式サイト:https://www.hakusuisha.co.jp/book/b595085.html

から)

「わたしたちは奴隷であることに耐え切れずに負けて、結局のところ暴力をふるう側にまわってしまったのじゃないか」★1。「たまたまそのとき力を握っていた者たちが、喰いものにしてよい命と、命を喰いものにしてよい人間を、力づくで決めること。それをもっともらしい『神話/物語』で根拠づけること。無条件に尊重されるべき『いのち』も『他者』も存在しない、そんな傲慢な想像力のふるまいを『植民地主義』と私は呼ぶことにしました」★2。イスラエルによるガザ侵攻の様相は、まさにこの言葉と一体の出来事だ。

この引用は2019年から2021年に行なわれていた、詩人である姜信子と研究者である山内明美による往復書簡の連載『忘却の野に春を想う』を出典とするもの。二人は前述の植民地主義が世界を覆っていると看破し、そのあり様を「パーフェクトコロニアリズム」と名指している。2024年の横浜トリエンナーレ、2023年の光州ビエンナーレといった最近の大型国際展だけでなく、2020年の「道草展:未知とともに歩む」(水戸芸術館)など、あらゆる現代美術に関する展覧会は、大なり小なり、脱植民地主義的、件の植民地主義からいかに脱するか、どのような植民地主義が存在してきたのかを顕在化させようとしてきた。ただし、二人が見定めた「パーフェクトコロニアリズム」とは、植民地主義的な行為そのものや、その実態の社会的忘却や無視は国家間だけでなく、国内にも蔓延するという指摘だろう。そしてさらに重要なことは、この事態の処方箋として「愛」は排他性と結びつくものであるから、有用ではないと判断が下されていることにある。

そこでわたしが思うのは、「これは作品かどうか」「これは批評かどうか」という問いが言外に匂わせる排除の議論(「これは作品・批評ではない」)は、疑似問題であり、何らかのクライテリアに結びついたヒエラルキーの型はめ、植民地主義的な判断に過ぎないということだ。結果、レビューを書くことが生計のひとつであるいまのわたしにとって重要なのは、事物の作為の範疇、「形」がどのように設定されているか(作者やキュレーターといった表現者の判断と結果)、あるいは、それがなぜ重要とされることになったのかといったある事物を取り囲む(後天的な)作為の「形」のあり方になっている。

こうなってくると、わたしは展覧会レビューにおいて、ここでの植民地主義における「喰いものする」ということをどう位置づけ、作品や表現を検討するのかが、次なる思案の対象となってくる。そして同時に、わたしは何の奴隷で、何に暴力をふるっているのかと考えざるをえない。とはいえ、これはかなり難しい。

東京都の下北沢で6月8日に開催された即売会「NOISY ZINE & BOOK Culture / Activism / Feminism / Queer の交差点」(キュレーター:宮越里子、主催:FRAGEN )では、脱植民地主義的考察に根差したZINEや雑誌、雑貨が多く販売されていた。そのなかで出会ったいくつかの表現は、パーフェクトコロニアリズムにおける排他性への立ち向かい、前回扱っていた、形象の連関という手法について、迂遠ながら考えていく手がかりとなるだろう。

「NOISY ZINE & BOOK Culture / Activism / Feminism / Queer の交差点」イベント会場BONUS TRACK広場の当日の様子[撮影:八木咲]

「NOISY ZINE & BOOK Culture / Activism / Feminism / Queer の交差点」イベント会場BONUS TRACK広場の当日の様子[撮影:八木咲]


★1──姜信子、山内明美『忘却の野に春を想う』(白水社、2021)p.18(山内の返答箇所)
★2──同、p.229(姜の返答箇所)


(「キュレーションと「形」に関わること④」へ)
※後日公開予定

執筆日:2024/06/10(月)


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