[台湾]

中央山脈の重なり。高速道路による南北の移動は、つねに片側に山脈の重なりを見続けることになる[筆者撮影]


台湾はひとつの島だ。

つまり、四周のすべてが海に面しており、海岸線が砂浜であれ崖であれ、その標高は海面と最後は合致する。島の内部にはさまざまな起伏がある。四周から島の内へ内へと進んでいけば必ず標高は高まっていき、どこかにはもっとも高い頂がある。

台湾最高峰である玉山(3952メートル)を含む中央山脈は、たしかに台湾の中央に存在する。しかし、四周から均等に立ち上がっているわけではなく、細長い台湾の島の東側にやや偏って存在している。中央山脈の西の麓から海岸線まで(つまり平野だ)は長いところでも50キロメートル程、中央山脈の幅は平野部の2倍以上はあり、東の麓はそのまま海岸線となるところが少なくない。東の平地は、山と山の間の谷筋として、あるいは両側の山と片面の海岸線とに挟まれた三角形の扇状地として現われるが、西と同様の広がりを指して平野と呼べる一帯は存在しない。この東西の極端な地形の差と、3000メートル級の山脈が南北に走り、島の2/3を山が占めていることは、台湾の歴史に大きく影響している。

大航海時代のさなかの16世紀、ポルトガルの商船が台湾を初めて「発見」したのだと言われている。そして1624年にはオランダが台湾南部に築城し、一部地域の植民地化を開始する。その後北部にはスペインが、また大陸から逃れてきた明朝の鄭氏が、そして清朝がこの島を支配した。清朝による約200年の統治の後、日本による半世紀の植民地支配、そして現在にまで至る台湾の自治がある。世界史へ現われる以前から島にさまざまな原住民(※台湾語)が暮らしていたことは言うまでもないが、「発見」の後、島は力によって支配されていく。それは自治を得ているように見えるとしても、だ。1945年以降の台湾の自治が、つねに中国からの外圧に晒されており、また島内においても半世紀にわたる戒厳令と弾圧が人々を押さえつけていたことを連続して考える必要がある★1

こうした状況の始まりでもある「発見」は、地図の空白を埋める競技のようでもあり、ヨーロッパ諸国の台湾の認識も島の内部まで詳細に描くものではなかった。16〜17世紀の地図においては、抽象化された山が幾重にも重なる様子が描かれているが、それは単に山が重なっているということを示しているにすぎない。現在の台湾に近い姿が描かれたのは、清朝支配下の1717年に発行された『皇輿全覽圖』の一枚《福建省圖》である。大陸側でもっとも近い福建省の一部として台湾が描かれているが、この図において台湾は西側の平野部しか描かれない。つまり、西側の海岸線から中央山脈の西の麓まで。弓なりの細長い平野の連なりと、余白へと消えていく山脈部。東側の輪郭は描かれもしない。

当時、海賊行為や海洋事故に際して、台湾が事態の中心となることは多々あった。国際問題として台湾で起きたことの責任の所在がどこにあるかが問われたのだ。清朝は「台湾は化外の島」でありそこに暮らすのは「化外の民」であるから清朝に統治責任はないのだと主張したという。西側の平野部へ入植を行ない、平野部に暮らしていた原住民を教化していたものの、麓から山の内は統治しきれない場所として放置されていた。

段階的な平野部の教化は、「蕃界」と呼ばれた境界線を引くことで平野の海寄りから山の麓へと移されていった。この線は防衛線であり、武装した軍人や兵器によって実体化してもいた。線は山間部の原住民の自由な移動を疎外したものの、平野の新住民の開拓を止めることはできなかった。線の内外で殺傷事件も発生し、清朝はますます「化外の民」と距離を置くようになる。そしてこの東側を描かない地図が、台湾は清朝の統治外であるということの証拠として扱われ、台湾の植民地化を各国は競うのであった。

「蕃界」の引かれた150年以上後、1895年に始まる日本統治においては「隘勇線」と名前を変えて境界線が引き継がれる。全島を支配するためには、この線を山の麓からさらに内へと進める必要がある。1905年までに「隘勇線」の一部は、「蕃界」より島の内へ入り込んだ。「蕃界」が平野から見通せる平野の端部としての山の麓を境界線としたのに対し、「隘勇線」は中央山脈のうち平野にもっとも近い一列目の山の稜線までを境界線とした。とはいえ、平野から目の届く範囲が境界線であることに変わりはないのだと言える。支配に段階があるとしたら、まずは見える限りまでが対象となる。

1905年から「五カ年計画理蕃事業」として「隘勇線」は狭められていく。等高線の狭い方、より高所へと線で囲まれた範囲を狭めていき、日本による全島の支配はひとまずの区切りを迎えた。同時期に戸籍制度が導入され、山間部も含めて島民の情報が一元的に管理されるようになったことは、目に由来する初期の支配が、見えないところにまで至るようになったことの異なる表われだろう。だが、高所へ追い込むことで、餓死するかあるいは降伏して教化されるかの二択を迫ったこの計画の後も、断続的に山間部の原住民の抵抗運動は繰り返されることとなる。

現在、中央山脈を越える東西の移動には、三大横貫公路と呼ばれる山道が用いられる。台北と宣蘭を結ぶ「北部横貫公路」、台中と花蓮を結ぶ「中部横貫公路」★2、そして台南と台東を結ぶ「南部横貫公路」である。北部横貫公路のみ、日本統治時代から現在と大きくは変わらない道が存在していたが、残り二つの横貫公路は日本統治下の山間部の警備道路が1960〜70年代にかけて開発された結果生まれたものだ。「隘勇線」が狭めきられ、消滅し、見えないところ──幾重にも重なった山の内まで──をも支配することの達成によって、横貫公路は存在している。道路は、つねに等高線を縦断していく。

南部横貫公路は、台南東部の国道3号(フォルモサ★3高速公路)の新化系統インターチェンジ付近から始まる。道路は山の裾野を抜けながら徐々に山間部へと入っていく。ゆるやかな起伏を繰り返しながら、正面に中央山脈の重なりが近づいてくるが、曇っていると一列目の山並みまでしか見ることはできない。2車線すれ違いの山道を進んでいくうち、道路の起伏が大きくなっていく。しかし、山脈を越えることはまだない。

中央山脈の内部へ分け入っていく荖濃渓沿いの道。この先に梅山があり、その後一気に山を上がっていく[筆者撮影]

平地を抜けていたのが、川沿いの道へと変わり、新化系統インターチェンジから2時間ほど経過すると、梅山という地区へやってくる。ここはブヌン族の居住地域であり、山越え前に通過する最後の現存する集落であり、最後のファミリーマートとガソリンスタンドのある地点だ。管制所が設けられ、災害等の際にはここ梅山より先に入ることはできない。ここから南部横貫公路の最高点である関山埡口までは1時間、標高差2000メートル近くを一気に上がることとなる。ここから進むうち、道路は白線のない道となり、すれ違いもできないような幅で見通しも効かない。一向に2772メートルの気配がしないと思っていると、終盤、坂は一気に急になり、ぐんぐんと標高が上がっていく。なお、要所要所に山脈の広がりを眺める地点があるものの、雲海はつねに上か下かを覆っている。

さすがに山頂を車で越えることはできないので、最高地点は小さなトンネルによって西側と東側がつながれている。関山埡口から、ようやく台湾の東側を眺めることが可能となる。ここまで来ると、むき出しの岩肌ばかりが目につく。

関山埡口から台湾の東側を見下ろす。標高2772メートル[筆者撮影]

中央山脈は、500万年前にユーラシアプレートとフィリピン海プレートの衝突により隆起したものだ。ユーラシアプレートの大陸への広がりを受けて西側に平野は連なり、フィリピン海プレートの潜り込みは、隆起をそのまま海へと下らせる。プレートの端に、大きな平野は残らなかった。雲海の下で、海へと滑り込んでいくこの山脈を想像してみる。

関山埡口から1時間、途中東側の管制所を抜け、2000メートル近くを下り、ブヌン族の農作地帯を抜けると、梅山と同程度の小規模な集落に至り、またファミリーマートがある。その背後の斜面には、日本統治下につくられた砲台があり、ここが「隘勇線」を狭める過程でまず境界線が移り行き、またその後を追うように開かれた山道の名残であることに気づく。

そして1時間とかからず、南部横貫公路の東の端へとたどり着く★4

山を越えていくことは、輪として必ず閉じる等高線を越えていく運動で、目視を始点とする支配の原理をなぞるものでもある。つねに山の向こうが見えないことと、山を越えれば向こうが見えること。このきわめて単純な、しかし覆しえない事実に基づく支配の原理を考える道のりだった★5

中央山脈の隆起がよく分かる立体地図。全島的な地形と現在地の関係を確かめながら台湾を一周した[筆者撮影]


★1──台湾出身の同世代の友人の説明によると、植民地支配された歴史のなかでも特に日本統治下の文化・社会の制度開発や展開の研究が進んでいるという。彼が小学校に通っていた頃は、日本統治下の歴史教育は十分ではなかったと言う。急速に進んだ「近代化」を始め、現在に至るまでのさまざまな影響を植民地支配はもたらした。世界から「発見」されたという経緯は、台湾が独立を主張するうえで重要な歴史的文脈なのだと説明された。つまり、私たちはつねに世界の動きのなかで翻弄され、ユーラシア大陸の東端の小さな島ではなく、太平洋を取り囲む島のひとつであったのだという主張である。この自己認識が、中国の一部であるという主張に対抗するものであり、それゆえに(現在まで続く歴史認識を巡る論争や訴訟などあるものの)植民地支配の歴史の位置づけがほかのアジア諸国と異なる(ように感じられる)所以でもある。原住民やLGBTQ+といった一般的にマイノリティと呼称される属性をもつ人々との連帯を示そうとするのも、島の内側から歴史的文脈の多様性を強化して見せるための、「国家」としての戦略なのだとも言えるだろう。
★2──中部横貫公路は2024年4月1日の花蓮での大地震以降、通行止めを繰り返している。三大横貫公路のうちもっとも険しい山道である。一方、南部横貫公路もまた、2022年までの15年間は閉鎖されていた。この道路状況からも、中央山脈の過酷さが伝わってくる。
★3──フォルモサとはポルトガル人が台湾を「発見」した際に発した「Ilha Formosa!(美しい島だ!)」という言葉に由来する。一方的な眼差しから始まる植民地主義を象徴するセリフにも思えるが、これもまた★1に挙げた友人の解説によると、台湾の近代史が世界とつながっていたことの象徴として扱われる言葉でもあるそうだ。国民党政権の戒厳令下で「美麗島」(フォルモサの台湾語訳)という雑誌が市民運動の中心的なメディアであったことにもその意識は表われている。
★4──南部横貫公路の東の出口には海端郷とよばれる集落がある。とはいえ、下りきって正面に目にするのは海ではない。中央山脈に並行する、海岸山脈だ。細く南北に伸びる一列だけのこの山脈と中央山脈の間が谷筋としてあり、南下すると台東、北上すると花蓮へと至る。台東と花蓮を結ぶ谷筋を除いては、山頂から想像したように山脈はそのまま海へと滑り込むものとして把握できる。
一方、山脈の重なりの見える/見えないことへの想像は、この一列だけの海岸山脈を見たことでようやく理解できたと思う。

東の河口から眺めた海岸山脈。中央山脈と対照的に重なりがなく、一列の山脈が南北に細く伸びている[筆者撮影]

★5──なお本稿の内容は、2024年6月1~9日に台北の寶藏巖國際藝術村(Treasure Hill Artist Village)で発表した展示+ツアーパフォーマンス《Elevation, Separator》(2024)と内容の多くを共有している。発表は武田侑子とのユニットTransfield Studio名義。

訪問日:2024/05/17(月)