発行日:2024/05/30
発行所:晶文社
公式サイト:https://www.shobunsha.co.jp/?p=8218
本書は何よりもまず、きわめて優れたゲーム批評本である。だが、ゲーム批評が優れているとは一体どういうことだろうか。分析が鋭いことは言うまでもない。しかし、本書が読めばそこで取り上げられているゲームをやりたくなること間違いなしのゲーム批評本になり得ているのは、一重にそこに筆者である近藤銀河自身のプレイヤーとしての体験が織り込まれているからにほかならない。ゲームをプレイする近藤の悦びが読者に訴えかけるということももちろんあるのだが、そもそもプレイヤーの能動的な参加を前提とするゲームというメディアにおいて、作品を語ることとプレイヤーの体験を語ることとは密接に結びついているのだ。
さて、ではその筆者=プレイヤーたる近藤銀河はどのような人物か。著者自身の自己紹介によれば近藤銀河は「美術研究者でアーティスト」、「パンセクシュアルで、車いすを使う障がい者でもある」。そして一見バラバラに見えるこれらの属性は「どれもゲームとなにかの結びつきがある」のだという。それらがどのような結びつきであるかという当然の疑問に対する答え自体はこの自己紹介の直後に一旦示されることになるのだが、その「答え」、つまりゲームと近藤のもつ複数の属性との結びつきは、同時に本書全体の見取り図を示すものにもなっている。個々の批評のみならず、本書全体もまたプレイヤーにして筆者たる近藤自身の体験と、その生と密接に結びついたかたちで語られていくことになるのだ。
6部20章構成で24作品+αを取り上げていく本書で最初に取り上げられるのは『ピクミン4』。しかも、語られるのは近藤が「『ピクミン4』のあからさまな植民地主義に疲れ果ててクリアすることに失敗した」体験である(なお、前段落で触れた自己紹介が含まれる「はじめに」と『ピクミン4』を取り上げた「#01 かくして私は収奪と救出に失敗する」は晶文社のnoteで全文が公開されている。興味をもたれた方はまずはそちらを読んでいただくのがいいだろう)。近藤は「プレイヤーがルールとやり取りをすることで主体的に物語を作り出すゲームでは、プレイに失敗したということ自体が、プレイヤーにとってのエンディングの一つになる」のだと言い、それは「世界を覆う規範や差別へのささやかな抵抗でもある」とも言う。そしてそれらの体験は「ジェンダーや異性愛を中心とした規範に苦しめられるセクシュアルマイノリティの経験そのものである」とも。
ところで、実は私はほとんどゲームをやらない人間である。やってみればそれなりに楽しく、それどころか幾度かはゲームにハマった時期もあるのだが、熱中すればするほど、その体験のすべてが用意された枠内でのものに過ぎないということを改めて意識した瞬間に急速に冷めてしまい、ゲームを継続的な趣味とするには至らなかった。だが、近藤は用意された枠とのやりとりにこそゲームの面白さや可能性を見出していく。ゲームをやらない私でも本書を面白く読めたのは(私がクィア批評に関心を寄せているからということもあるのだが)、近藤の批評がゲームのさまざまな可能性を次々と指し示してくれたからである。なるほどゲームとはこんなにも面白いメディアだったのかという驚きがそこにはあった。
本書を構成する6部にはそれぞれ「〜なゲーム、やってみた」というタイトルが付けられ、「あの有名なゲーム、やってみた」からはじまるそれは「クィアが活躍するゲーム」「マイノリティの日常を感じるゲーム」と続く。個人的には歴史研究とクィア批評の視点が交錯するところにゲームの可能性が浮かび上がる「80-90年代を描くゲーム、やってみた」から「歴史を想像するゲーム、やってみた」への流れを特に面白く読んだ。プレイヤーが能動的に関わることで物語を立ち上げていくゲームだからこそ可能になる過去の語り方があり、その語りは語ることを許されてこなかった人々の存在を過去から掬い上げることにもつながっていく。
「Ⅵ ファンタジー世界を旅するゲーム、やってみた」の終わりには再びメジャーなタイトル──『ドラゴンクエストⅥ』『ファイナルファンタジーⅥ』『MOTHER2』──が取り上げられることになる。「#20 かつて私は、あのゲームの余白にフェミニズムやクィアを投影していた」という章題が示すように、この章は近藤のゲーム体験のルーツへと遡るものだ。同時にそれは、本書を通じて獲得してきた視線を(一部の読者にとっては懐かしいであろう)過去のメジャータイトルに向け直すことを読者に促すものでもある。このとき、かつてそれらのゲームをプレイした近藤が密かにそこに見出していたものは読者と共有されることになるだろう。「クィアの過去は個人のそれであれ歴史としてのそれであれ断片的で辿りづらく、未来もまたしばしば過酷な現実に阻まれ思い描くことが困難だ」。だが、そうして掬い出された過去は新たな現在を築くための礎となる。本書の最後に記されているのはそんな希望とゲームを通じた連帯への誘いである。
鑑賞日:2024/09/09(月)