会期:2024/09/21~2024/09/23
open cafe ロック亭[大阪府]
公式サイト:http://gekino64.blog.fc2.com/blog-entry-33.html
一見すると、身体を張って笑いを取るバカバカしいコントやピン芸人のノリだが、根底では、演劇における「ちから」とは何か? について多角的に問うメタ演劇作品だ。
開幕早々、劇の虫(吉村篤生)は、「僕、ちからが欲しいんです」と客席に語りかける。だが、そのために苦労したくないと言う吉村は、苦労せずに「ちから」が得られる事例として、「火事場の馬鹿力」を挙げる。そして、火事はあくまで例えであり、実際に火事が起きなくとも、「火事規模の負荷」を自分自身にかけていけば「ちから」が発現するはずだという理屈から、さまざまな負荷が実践され、次第にエスカレートしていく。
本作が問う、演劇における「ちから」は2つのレベルに大別される。①嘘を信じ込ませる「ちから」と、②演劇が構造的にはらむ権力勾配や、協力と強制の境界だ。
前半では、まず、「スマホに吹き込んだ自分の悪口をイヤホンで聴き続ける」負荷が課される。だが、あまりに汚い言葉だからという「観客への心理的配慮」のため、吉村はイヤホンを着用し、どのような悪口なのかは観客にはまったく聴こえない。吉村は「負荷メーターが上がっていくのがわかる」と実況しつつ、欲しいのは「正義のちから」であるため、観客に嫌な思いをさせたくないと語る。また、負荷がかかった苦しい表情も見せたくないという「配慮」から、「Jポップを聴いている顔をしている」のだと言う。
「観客への(過剰な)配慮」と真偽の境界が曖昧な事態は、次のステージで加速する。さらなる負荷として、「指に刺さったトゲ抜き」を模し、指に針を刺す行為が実践される。バイ菌が怖いからと吉村は針をライターであぶって消毒までするのだが、「出血を観客に見せない配慮」として、半透明の仕切り板が立てられる。さらに、血しぶきが飛び散ったときのカモフラージュ対策として、床に赤い布が敷かれ、赤と青の3Dメガネが配られ、吉村は口に吹き戻しをくわえる(息を吹き込むと、ピューという音とともに紙筒が伸びるおもちゃの笛であり、仕切り板の向こう側からは、「血しぶき」からの注意を逸らすため、この笛が伸びる)。どこまで本気の苦行なのかの曖昧さと、脱力的な笑い。さらなる負荷として、捕獲した蚊を入れてあるというアクリル瓶に吉村は手を突っ込み、蚊が刺してくれるのを待つ。
これでもまだ「ちから」が発現しないため、後半で吉村は、自らにセルフ水責めを課す。箱型のポリ容器に穴をあけて頭にかぶり、水漏れ防止のために穴の周囲をビニール袋や養生テープで梱包し、頭上のポリタンクから水を注いでいく。ゴーグルや手動式エアーポンプまで着用され、漏れた水でびしょ濡れになり、水でむせながらも語り続ける吉村。なぜ「ちから」が欲しいのか。唐突に紹介されるのが、歩いた歩数によって換金可能なポイントが溜まるスマホアプリの「ポイ活」だ。歩くだけで稼げる仕組みは、どれだけの人間がどこにどれだけの時間滞在したかをビッグデータとして収集し、商品価値のある情報として売るからだという。このアプリで稼ぐ裏技として、吉村は、立ち仕事のバイト中も足踏みを続け、帰宅後もスマホを揺さぶり続けているのだと語る。「僕の家が、大勢の人が集まるポイントだとビッグデータは勘違いしている」「ビッグデータを支配するちからを僕は持っている」と言う吉村。動画広告を見る時間が換金化されるように、あらゆる時間が換金可能な情報消費社会では、「僕には無駄な時間などない」ため、「水責め」中も、吉村のスマホはラジコンカーに載せられ、客席へと侵入する。
ポイントと同様に溜まっていく負荷。それはついに「ビッグデータを逆支配するちから」の獲得へといたる。だが、手で揺さぶったりラジコンカーが与える振動は、果たして「歩数」とカウントされるのか。実際に水をかぶる行為は「本物」だが、びしょ濡れになった身体すら、負荷の加算であると同時に、「相手を信じさせる演出」でもあることが語られる。例えば、遅刻した相手が水に濡れていたら切実度が増すように、「ビッグデータを支配するちから」の本当らしさは、びしょ濡れ姿で語る方が増すのだ、と。
真偽の曖昧さと、ふざけているようで計算づくの構成は、「作品のクレジット」にも仕込まれている。「出演」は吉村に加え、「力」と記載されるが、漢字の「ちから」なのか、カタカナの「カ(蚊)」なのか、曖昧に重なり合う。吉村が捕まえた「蚊への配慮」として「クレジット記載」しているとすれば、「蚊に出演の同意を取っているのか」「演出家による一方的な搾取ではないのか」というツッコミ(批判)に対する防御線が張られていることになる。
こうした「クレジット」にまで侵入する真偽の曖昧さや脱力した笑いは、演劇が構造的にはらむ権力勾配や搾取へと意識を向けさせる。「作・総責任」は吉村がクレジットされるが、「演出」として「LOVE&P助」というふざけた人物名がクレジットされている。自作自演に加え、照明や機材の操作も吉村がひとりで行ない、会場には受付や誘導スタッフすら不在で、明らかに架空の存在だ。だが、この架空のクレジットが差し挟まれることにより、「演出家が出演者に負荷をかけていく」という構造がはらむ危うい暴力性について意識させる。「出演料を払う」ことで、果たして解消可能なのか、と。
「ちから」の獲得が換金可能な「ポイ活」と同一視されていたように、「演出家からの指示/強制」という演劇がはらむ「ちから」とカネの関係は、観客をも巻き込んでいく。開演前、吉村から観客に対して、1名の協力者を募るお願いがなされる。協力者がいなくても上演自体に大きな変化はない。ただし、協力者には、チケット代と同額の金銭が「汚い金」として支払われる。一般的に、観客参加型の作品は、「観客の善意の協力」を前提として成り立ち、そこに「報酬」「対価」は発生しない。だが、「ご協力をお願いしています」という要請は、自発的な協力を求めるフリをして実は限りなく強制的な圧力ではないのか? 客席へと侵入してくる「稼ぎ中」のスマホのように、観客も巻き込みながら、演劇において作動する複数ベクトルの「ちから」について問う、まじめな作品である。
鑑賞日:2024/09/23(月・祝)