会期:2024/10/12~2025/2/16
会場:豊田市美術館[愛知県]
公式サイト:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/anarchism_and_art

愛知県・豊田市美術館において、アナキズムの実践における創造性に注目する展覧会「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」が開催された。「しないでおく、」という言葉の響きと一呼吸の心地よさに感嘆する。一方で本展は「作品を作らないでおく」といったダダイスト的な姿勢を軸にしたものではないようだ。平和主義アナキズムに影響を与えたトルストイの論文「Non Activity」を思い起こさせる展覧会名だが、英題の“Anarchism as a Space of Asylum: The Act of Inaction”における“Space”をめぐる問いかけが本展の要となっている★1。アナキズムと親和性が高いという新印象主義に加えて、空間に囚われない活動をする七つの作家や集団に焦点を当てた展覧会だった。

展覧会入り口手前に、マルガレーテ・ラスペの《ヴィデオミエル》(1995/2024)が吊り下げられている。小さなモニターの面は何かを映しているようだが、液晶ディスプレイの解像度を拡大したような蜂の巣によるドット状の網の膜に覆われて、映像を見るのは容易ではない。

「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」展会場風景[筆者撮影]

中に入ると、「新印象主義」「モンテ・ヴェリタ」「シチュアシオニスト・インターナショナル」「ロシア集団行為」の作品や関連資料が壁面をぐるりと囲み、その内側に「コーポ北加賀屋」「大木裕之」が配置されている。それらのブロック脇に「オル太」「マルガレーテ・ラスペ」が連結するような会場構成となっていた。

真実の山を意味する「モンテ・ヴェリタ」の章は、1900年頃からスイス南部のアスコナに集った生活者たちの営みを年表とともに紹介している。バウハウスのメンバーも訪れ、都市化が進んだ北部とは異なる価値観を求めた人々が集ったこの地は、現在は公園として活用されている★2。「シチュアシオニスト・インターナショナル」は1957年にパリで結成された。状況派を名乗る彼らはパリを歩き、漂流し、メンバーのギー・ドゥボールの《ネイキッド・シティ》(1957)が心理的な地理によってパリの地図を再構成したように、パリという場を捉え直し、機関誌の発行を行なった。「ロシア集団行為」は1976年以降、モスクワ郊外の雪原や共同住宅の一室などで、観測者とともに169個のアクションを行なっている。第一回のアクション「出現」は、雪深い木の隙間からメンバーが「出現」し、それを観測した観客たちに「証明証」が配布されたという。

こうした場の生成、転用、一時使用といった土地の影響を伴う創造に勤しんだヨーロッパの先駆例に競合するように、現在も制作を続ける国内の作家たちが紹介されていた。「コーポ北加賀屋」は大阪市にある協働スタジオで、七つのグループが入居している。スクワッター的なスタイルを参照しながら、決め事のイニシアチブを取る主導者を出さないことで場を滞留させる稀有な施設のようだ。「大木裕之」は国内に複数拠点を持ち、その移動のなかで作品が結実していく特徴があるという。会場にはソファや棚を含むコーポ北加賀屋内の物品の数々、また大木の部屋内の状態が移設されており、彼らのスペースが豊田市美術館の展示室ににじみ出ているような印象だった。そして2009年に多摩美在卒生で結成された「オル太」は、現在5名のメンバーからなり、多摩ニュータウンでのパフォーマンスを含む二つの映像を出品していた。

本展において強く惹かれたのは展覧会場の最初と最後に位置するマルガレーテ・ラスペだった。昨年ベルリンで回顧展が開かれた彼女は、先駆的な映像作家であるとともに、創造的な活動の場を逍遥するオーガナイザーでもあった。

彼女は1954年から60年にかけて絵画とファッションを学んだあと、ファッションデザイナーとして働き、1971年に創作活動を再開する。85年から93年には一年に一度、自宅の庭を2日間にわたって開放する「庭園プロジェクト」を開催したという。カプリ島では海の中でお茶会をするイベントを開くなど、生活と美術的視点を融合する試みを周囲の人々とともに営んだ作家である★3

会場には自動筆記のシリーズ、羊の毛を積んだ《雲の山》(1990/2024)、代表作である8mmカメラを頭部に装着して台所作業を撮影した「カメラヘルメットフィルム」シリーズが目に入りやすい並びで配置されていた。

「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」展会場風景[筆者撮影]

それらを一望すると、彼女の関心が身体的なリズムや運動に強く向いていることがわかる。たとえば《オートマチック、どもりながら話す》(1969)に見られる文字の反復は、その対面に置かれた《ドローイング》(制作年不詳)の引っ掻き線に対応して見える。さらにその小刻みな文字や線の反復は、彼女が撮影した『アナステナリア-ラガダスの火渡り祭』(1978-85)における祭に参加する人々の特徴的な足取りとも重なる。

マルガレーテ・ラスペの諸作品[筆者撮影]

動物の解体や、洗い場における荒々しい水飛沫を捉えた「カメラヘルメットフィルム」の映像もまた、その行為性に注目できる。これらは、料理の工程における暴力性を焦点化したものとも捉えることができる。しかしこれらのFPS視点による作品群からは、家事という作業における自動筆記的なふるまい、一つひとつの行為における無為的な運動の記録映像としての側面が際立って感じられる。スクリーンには「食器の汚れを落として再利用する」という目的を持っていたはずの行為と、「ガラスをこする」という無機的な行為が重なり合っているさまが映し出されるばかりで、マーサ・ロスラーの《キッチンの記号学》(1975)が意図したようなメッセージ性は感じられない。この意味において、台所を舞台とする映像作品と、自動筆記によるドローイング、それらを描く様子を撮影した《女性機械の自己運動、あるいは外見は外見のまま》(1977)は同様の観点で見ることができる。

ラスペはほかに、汚染された川に入り、白い衣服を有害物質によって染め上げるパフォーマンスなど、自らが生きる環境をテーマにした制作を行なっている。意識と身体のはざまを炙り出す自動筆記や、周囲の人々を巻き込んで自らの生きる時空間を生きながらに変革していく彼女の試みは、「しないでおく、をする」「逃げながら居続ける」といった本展が標榜する「空間からの亡命」を、字義を超えて体現したものだと言えるだろう。

鑑賞日:2024/10/25(金)

★1──https://www.museum.toyota.aichi.jp/en/exhibition/anarchism_and_art
★2──https://www.monteverita.org/en/monte-verita/monte-verita-park
★3──https://www.pariedispari.org/artisti/margaret-raspe