会期:2025/01/18~2025/03/03
会場:半兵衛麸五条ビル2F ホールKeiryu[京都府]
公式サイト:https://www.finch.link/post/literal

「文字」を構成要素に取り込む、国内外の美術作家9名によるグループ展。タイトルの「リテラル コリジョンズ/文字通りの衝突」には、文字と造形の衝突、「引用」がもたらす異なる文脈どうしの衝突という複数の意味が込められている。「文字を用いた表現」と聞いて思い浮かぶコンセプチュアル・アートや書ではなく、日本画を含む絵画、グラフィティ、彫刻、陶芸と多様な表現領域をカバーし、造形要素のひとつとして「文字」に着目した点に本展の特徴がある。また、作家どうしの関連性がさらなる多層的な奥行きをもたらす、練られた展示構成だ。

[Photo by Oka Haruka, Courtesy of FINCH ARTS]

「立体物の表面に刻まれた文字を読む行為」が、「静的な鑑賞行為」に干渉し、周回運動として身体的に働きかけるのが、福岡道雄の彫刻とリュ・ジェユンの陶芸作品である。福岡の《僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか》(2000)は、黒い板の表面を同心円状に埋め尽くすように、タイトルの一文をひたすら刻み付けた彫刻作品。板の中心には、枝も葉もなく切断された細い木の彫刻が置かれ、その先端に小さな人間がしがみつく。波紋のように広がるフレーズの反復をよく見ると、水面に落ちた赤い花びらのように、放射能マークが紛れ込んでいる。


福岡道雄《僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか》(2000、部分)
[Photo by Oka Haruka, Courtesy of FINCH ARTS]

また、リュ・ジェユンは、朝鮮半島の伝統的な「月壺」を手捻りで成形し、下半分にハングルで、上半分に日本語で、内省的な独白のような詩的な文章を刻み込んだ。文字を追いかける鑑賞者は、必然的に、丸い壺の周囲を何周もぐるぐると回りながら読むことを余儀なくされる。「文字を読む」行為がはらんでいる身体性や時間性を体感させると同時に、「同じ場所をぐるぐる回ること」は、作家自身の内面的な逡巡を追体験させる。さらに、文字の意味を頭に入れようと歩行のスピードを上げるにつれ、周回運動が軽いめまいをもたらし、「スムーズな意味の理解」に干渉する。一望ですべてを把握できないこと、そして「他者」を理解しようと接近する行為がむしろ「衝突」をもたらす事態を改めて体感させる装置だ。

リュ・ジェユン《月壺9》(2025) [Photo by Oka Haruka, Courtesy of FINCH ARTS]

一方、絵画に文字を埋め込むのが、中村ケンゴと長谷川由貴。中村の「ひらがな ぺいんてぃんぐ」シリーズは、日本画材を使用し、日本における西洋近代美術の制度的受容について文字通り問い直すものだ。幾何学的抽象絵画を思わせる色面には、「アジアはひとつである」「抽象表現構成主義絵画」といった単語が「ひらがな」で塗り残されている。中村の作品タイトルでもある「アジアはひとつ」は、岡倉天心が1903年に英語で著した『The Ideals of the East(東洋の理想)』で掲げたスローガンの引用である。天心の思想はその後、彼自身の意図を離れ、日本がアジアの盟主となって西欧列強の植民地支配から解放すべきだとする「アジア主義」の先駆的提唱者と見なされた。中村の絵画は、「アジア主義」「抽象表現主義」「構成主義」というスローガンを文字通り掲げつつ、ひらがなで「やさしいにほんご」化することで、権力性を武装解除してしまう。あるいは、日本画材と「やさしいにほんご」で記された「あじあはひとつである」というスローガンは、台湾と朝鮮半島にも日本の官展や美術制度を移植させた植民地支配を示唆し、より複雑な文化的衝突を浮かび上がらせる。

中村ケンゴ《アジアはひとつ》(2024)

また、長谷川由貴は、園芸植物を描いた画面に、発光するネオン管の文字によるメッセージを描き込み、植物と文字、造形と意味作用が互いに干渉・衝突し合う絵画を制作している。《The Spectrum of Species》(2022)では、色鮮やかな蘭の花と、「IS IT DIFFICULT TO ACCEPT THEM AS THEY ARE?(それらをあるがままに受け入れるのは難しいのですか?)」というメッセージが光を放つが、共存/干渉し合って読み取りづらい。描かれた蘭の花はすべて実在し、花弁の形状はほぼ同じだが、色や模様がそれぞれ異なる。作品タイトルは「種のスペクトル(連続する多様性)」を意味し、植物の品種に仮託した多様性についてのメッセージを投げかける。さらに、本作が描かれたのは3年前だが、本展開催中の2025年1月、トランプ大統領が就任直後にDEI(多様性、公平性、包括性)を撤回する大統領令に次々と署名し、「性別は男性と女性の2つだけである」とする大統領令も含まれる事態と重ね合わせると、本作は、トランスジェンダー、特に性別を指定しない三人称単数形の代名詞「they」を使用するノンバイナリーの権利侵害に対する抵抗のメッセージとしても読むことができる。


長谷川由貴《The Spectrum of Species》(2022)

また、「字幕」「テロップ」を表現要素に用いるのが、神馬啓佑の絵画とジェニー・ホルツァーだ。ホルツァーは周知のように、ジェンダー、消費資本主義、政治権力に対する挑発的なスローガンを、それ自体「広告」に使用される電光掲示板を用いて公共空間に介入させる。

ジェニー・ホルツァー《Truism》(1991) [Photo by Oka Haruka, Courtesy of FINCH ARTS]

一方、神馬は、エアブラシで筆触を排した写実的な絵画に、一見関連性がない文章を「映像の字幕」のように描き込み、異なる文脈を接合させる。出品作品《Who is the most fairest one of all?》(2022-24)では、路上に置かれたフライドポテトの絵に、タイトルと同じ英文と、「ぶっちゃけいちばんかわいいのって誰やと思う?」という和訳が添えられる。ポテトはフランス語で「pomme de terre(地のリンゴ)」と呼ばれ、「世界で最も美しいのは誰?」という英語字幕は、ディズニーの古典的アニメ映画『白雪姫』(1937)からの引用であり、魔法の鏡に問いかける継母の台詞に由来する。また、「リンゴ」という隠れたモチーフと「女性の美の判定」は、ギリシャ神話の「パリスの審判」とも結びつく。「最も美しい者へ」と書かれた黄金のリンゴを誰が手にするのかをめぐり、羊飼いの若者パリスが3人の女神の「美」を判定し、トロイア戦争の発端になったエピソードだ。神馬は、古典的アニメ映画/ギリシャ神話に登場する台詞を、関西弁の現代口語に書き替えた。この操作は、例えば新入社員やサークルの新入生の女性の外見について、男性どうしが交わすホモソーシャルな会話を仄めかす。「パリスの審判」は、 現代においても・・・・・・・行なわれ続けているのだ。さらに、安価なファストフードの絵に「字幕」として重ねる操作は、「手軽な消費対象」として女性を見なす性差別的視線を浮かび上がらせる。神馬の絵画は、「リンゴ」という画面自体には不在の象徴を通して、複数の引用や暗喩を重層化することで、「男性の視線によって外見的な美を絶対的な基準として女性が判定されること」それ自体が、「即座には読み取りづらいもの」「見えにくい性差別」であることを批評的に示すものとして解釈可能だ。

神馬啓佑《Who is the most fairest one of all?》(2022-24)

最後に、ネオン管の光、電光掲示板、字幕といった非物質的な「文字」に対して、黒い石炭の粉という強い物質性を伴う「文字」を用いたグレン・ライゴンの作品に触れたい。タイトルにある「Stranger in the Village」は、アフリカ系アメリカ人作家・公民権運動家のジェームズ・ボールドウィンが、スイスの村で「唯一の黒人」として経験した人種的疎外感を綴った1953 年のエッセイのタイトルである。ライゴンは、そのエッセイの抜粋を、奴隷労働、黒く光り輝く美、激しい燃焼を想起させる石炭粉を用いて記した。だが、文字の形はざらざらと崩壊し、その奥にある紙に刷られたイメージも読み取ることができない。抵抗のメッセージもイメージも「読み取れない」こと、あるいは誰かの手で「見えなくされている」こと、しかし物質的な手触りを伴って確かにそこに存在していることを本作は告げている。 「文字を用いた美術作品」というと、コンセプチュアル・アートや明快なメッセージ性をもつものを思い浮かべがちだ。だが、本展はむしろ、スムーズな読解を妨げる「読み取りにくさ」によってこそ、見えにくい構造的問題を語ることができる作品の力を示している。


グレン・ライゴン《Study for stranger in the village / Hands Series》(2011)

鑑賞日:2025/02/16(日)