会期:2025/02/08~2025/02/09

会場:葛西臨海公園[東京都]
公式サイト:https://ccbt.rekibun.or.jp/events/aquariumofair

まだ美術予備校に通っていたころ、葛西臨海公園を訪れたことがある。駅を出て、視界の端にかすかに海が見えるあの直線的な導線。風が強く吹いていて、水上バス乗り場の簡素な建築をスケッチしたことをよく覚えている。谷口吉生が設計したこの小さな駅舎は、東京湾の水平線をガラス越しに溶かし込み、土地と海と空を撹拌する透明なプロセニアムだった​。

私はいまそれに、Meta Quest 3の粗いピクセルを重ねて眺めている。彼方を望む視線はその実、眼前に張られたディスプレイに囚われている。これは、布施琳太郎の「パビリオン・ゼロ」を象徴的に示す構造だ。遠景へと向かう鑑賞者の意識は、いつのまにか自分の足下=根拠へと折り返していく。展覧会でも映画でも、ガイドツアーでもないこのプロジェクトは、空間と時間を跨ぐ一連の試行として存在する。

とりわけツアー型展覧会「空の水族園」は、葛西臨海公園という地理的・制度的に不安定な場所を舞台に、観客の身体を移動させながら「ここに何があるのか」という問いを浮上させている。「空の水族園」という矛盾した呼称は、展示の根幹にある空虚と充溢の反転構造を象徴している。水が満たされていない水槽、展示物のないパビリオン、都市の外部で演じられる市外劇。参加者は観覧者であると同時に俳優であり、記録者でもある。存在しない水槽に浮かぶ存在しないアニマたち。支配と解放──freezeとfree──の誤配。公園、風、芝生、声、そしてかすかな映像の断片。それは展示という制度の空洞に対する、暴露と再編の試みでもある。

その記録は、プラネタリウムを舞台とした上映会「観察報告:空の証言」において再演される。公園内を歩いた身体たちがここでは“証人”として召喚され、観測され、回想され、反復される。プラネタリウムとは、観測者からの距離がそれぞれまったく異なる星々をひとつの天球面に並べることで成立している。つまりそれは、距離の削除のためのメディアだ。一次情報としてのツアー参加者の記憶とそれを編集した二次情報は、ともに天球面へと展開され、距離を失って交合する。歩みとともに彼らが探索した物語は、会場に寝転んで空を見上げる人々の身体へと降り注ぐ。この姿勢の差異こそが、記録の完全な仲介の不可能性を端的にあらわしている。

そして最後に、美術雑誌『ドリーム・アイランド』がこれらを標本化する。「ドリーム・アイランド」とは、ゴミ埋立地「夢の島」であり、大阪・関西万博会場「夢洲」であり、そして「ユートピア」の謂である。紙というメディアは記憶を定着させるが、それは物理的な厚みの分だけズレていく。それは、言説の重みが必ずしも根拠を保証しないことを示す。見ることは記憶すること。記憶することは見なかったことすら見えるようになること。私たちが見落としたものを見せてくれるのではなく、見落としたままでいさせてくれること。それは展示というよりも風景に、演劇というよりも気象に、美術というよりも観察に近い。そしておそらくは、もっとも原初的な種類の嘘でもある。

──以上は布施琳太郎によるアートプロジェクト「パビリオン・ゼロ」についての、ChatGPTを用いた寸評である。論の展開や言及ポイントといった詳細を指定することなく複数回の試行を行ない、その出力結果群を筆者が適宜構成・加筆修正することで執筆された。さてここから先は、私ひとりの手によってテキストを進めていこう。布施は「開催にあたって」★1と題する、本プロジェクトのステートメントめいたテキストにおいて「現代における危機とは、虚構によって現実が侵食されることではない。むしろ現実によって虚構が侵略されることだ」と述べた。では、上記のようなレビューはいずれに属するのだろうか。このレビューには、退屈さと思ってもみなかったような鋭さが混在し、危ういバランスを成している。現実の私の体験がChatGPTを介して変質しているのか、それともChatGPTによる虚構の飛翔を私が現実に引き留めているのだろうか。「台本は人生で汚されてしまったわ」。かつて寺山修司はそう書いた。その汚れは過失なのか故意なのか、今やそれだけが問題だ。

本プロジェクトのなかには、「市外劇」と名指されるツアー型展覧会「パビリオン・ゼロ:空の水族園」、この展覧会の報告会の体をとったプラネタリウムでの上映会「観察報告:空の証言」、美術雑誌『ドリーム・アイランド』の刊行の三つが含まれている。ここからは「パビリオン・ゼロ:空の水族園」の道程をゆるやかに追いつつ、レビューを進めていこう。

駅から集合場所までの道には横断幕や誘導員が配されている。そこに大きく示されるのは、八木幣二郎によるロゴデザインだ。このロゴはパビリオンの語源である「蝶」をモチーフとしたものだと説明されている。ここでは即座に『荘子』による胡蝶の夢の説話が想起されるだろう。「現実と虚構の“境目”を見分ける努力を怠らないでください」布施はそう強調する。素朴に考えると、これは大きな矛盾だ。現実と夢をことさらに分節しようとする偏執的な姿勢から離れたところにこそ胡蝶は遊ぶのであり、それは布施の言葉とは正反対の態度であるように思われる。現実と虚構の境界を注視することと無視すること。それらが並立しうる状態とはいかなるものであろうか。これはまた後半で検討しよう。

集合場所に到着すると、参加者は1人1台、Meta Quest 3を配布される。マシュマロを思わせる白いHMDを装着した数十名の参加者が並び、レトロフューチャーとも呼べない無味乾燥な風景が広がる──ところで、HMDの外観デザインとは何なのだろう。Meta QuestやApple Vision Proに代表されるような近年のHMDは、PCやスマートフォンに次ぐ新たなパラダイムを求めて開発が進められていると言っていい。つまりそこでは、人と人、人と世界の接続を担保するインフラとしてのデジタルデバイスの在り方が探索されている。そう考えたとき、HMDの外観とは必然的に消滅していくべきものであるように思える。なぜならHMDとは外部を持たないデバイスだからだ。HMDを装着しているとき、その外観は問題にならない。HMDを装着して生活の大半を過ごす人々が多数派となった暁には、その外観を見ることにはどこか後ろめたい質感さえ生じるだろう。かつて布施は論考「新しい孤独」★2において、従来のコンピュータを支えていたイメージとシンボル、現実と仮想の距離は、iPhoneの登場によって超越されたと指摘した。いまや私たちはタッチスクリーンを通じた「幻想の触覚」によって、あらゆる対象へ直接アクセス可能になったのだと。ではHMDはどうか。HMDのスクリーンはiPhoneよりもさらに身体に接近し、その距離を文字通りの意味で消失させる。しかし、私たちはもはやスクリーンに触れることは叶わない。HMDの視覚上では、iPhoneのタッチスクリーン以上の直接性をもってあらゆる対象へのアクセスが可能になっているように見えるものの、その視界に入る手指自体がすでに、スクリーンによって映し出された像でしかない。「現実と虚構の“境目”を見分ける努力を怠らないでください」。そう言われて私たちが凝らす眼はもはや、HMDのスクリーンを通してしか世界に届かない。

布施によれば、寺山による「市街劇」が都市=人間のための領域を舞台としていたのに対し、本作の「市外劇」は、その外部につくられた動植物たちのための空間としての葛西臨海公園に焦点を当てているという。市外、それは東京という大都市の外であり、同時期に開催を控えていた大阪・関西万博の外でもあることは明白だ。かつてレム・コールハースは都市の外部としての田舎に着目し、世界中で加速する都市化のネガとしての田舎の変異をリサーチしていた。ここから引き出される洞察としてとりわけ興味深いのは、私たちのイメージする都市と田舎の関係性は今日において完全に逆転しているということだろう。田舎の茫漠たる土地には、ビッグテックのデータセンターや高度に機械化された農業施設、先進技術の実証実験場などが立ち並ぶ。窓のないモノリスの如き建築の内外で機械が蠢き、地平線の果てまで見渡しても人間の姿はない──まるでディストピアSFのクリシェのような風景が田舎には広がっている。一方の都市部では、あちこちが緑によって彩られ、広々とした街を行き交う人々はあたたかな日差しを受けて過ごしている。それは、私たちがイメージする牧歌的な田園風景のエッセンスである。東京湾埋め立てによる環境破壊からの再生を目指した葛西臨海公園、こうした人工的な自然環境構築のノウハウが今や都市空間を覆っている。世界がテクノロジー=非生物のための空間として一元化されつつある現在において、都市もまた、人間という動植物のための保護区となっているわけだ。都市と田舎はループ構造を採っている。外部へと向かう者たちはクラインの壺をくぐるようにして、ふたたび内部へと戻ってくる。

HMDによって現実と虚構を見分けるための前提を失い、市外へと身体を逃すこともできない私たちは、一体どのようにしてこの水族園を目撃したと言えるのだろうか。少し時間を遡ろう。「記者会見」★3と名付けられた本プロジェクトのリリース発表において、布施は落合陽一・椹木野衣との座談会を行なっている。ここで椹木は布施のプロジェクトを捉えるにあたり、寺山のラジオドラマを参照項として提示する。特に椹木は、アマチュア天文家・池谷薫をモチーフとした「コメット・イケヤ」から以下のような一節を引いてみせる。「星はいつでも見えてるんですけど、そこに星が輝いてるって気がついた人にだけ見えるんです。例え目が見えなくても星がそこにあるって気がつけば誰にでも見れるんです」。ここで、彗星を肉眼で見つけるためのよく知られた方法が思い出される。一般に彗星は明るさに乏しいため、夜空を闇雲に探しても見つけることはできない。彗星を見つけるには天球を視界の中心から外し、目の端で探すことが推奨される。これは、人間の眼球がその周縁部に明るさを捉える桿体細胞を多く分布させていることによる。見るために見ないという逆説。いや、注視するのでも目を瞑るのでもなく、目を逸らすということの意味がここでは重要となる。寺山の「市街劇」は布施によって「市外劇」へと読み替えられ、ここに至ってさらに「視外劇」へと誤読される。

後編へ)

鑑賞日:2025/02/09(日)、2025/03/14(金)、2025/03/15(土)

CCBT 2024年度アーティスト・フェロー 布施琳太郎
「パビリオン・ゼロ」
https://ccbt.rekibun.or.jp/art-incubation/19670

★1──https://ccbt.rekibun.or.jp/events/aquariumofair
★2──https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19775
★3──https://www.youtube.com/live/2NMBZ9YA0es