会期:2025/05/02より順次公開
会場:角川シネマ有楽町池袋シネマ・ロサ渋谷シネクイントアップリンク吉祥寺ほか[東京都]
公式サイト:https://www.uplink.co.jp/mikansei/

ロウ・イエ監督作品である『未完成の映画』は、新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックという集団的トラウマを、イメージの断片と分断された時間を通して描写する作品である。感染拡大により撮影が中断の憂き目に遭った「10年前に撮影された未完成のクィア映画」を起点に、登場人物の記録、都市風景、SNS上にアップロードされた実際の映像が交差し、ドキュメンタリーともフィクションとも定義しがたい構造を組み立てている。


『未完成の映画』チラシ[筆者撮影]

本作では、異なる時間やハードウェアで撮影された複数の映像レイヤーが、互いに交差することなく並置され、いずれにも収斂しない構造がポストプロダクションによって構築されている。断絶そのものが形式となり、パンデミック以後の現実の不確かさを映し出すように、ひとつに語ることのできない不定形な人々の物語が「未完成な形式」に変換されている。

物語のなかには、10年前に撮影されたクィア映画の続きを再び撮影しようとする映画クルーが登場する。彼らはパンデミックによって隔離され、ホテル内で配信や通話を続けながら、それぞれのデバイスで断片的に記録・コミュニケーションを行なう。一方で、実際に2020年前後に中国国内で暮らす市民がスマートフォンで撮影した映像──封鎖された都市や隔離施設の内部、医師への追悼、日常の断片など──が、フィクションと同列に組み込まれる。

映像が単一の視点ではなく、「視線の断片」として立ち上がってくる点において、本作は極めて特異である。スマートフォンや配信アプリなど、メディアごとに異なる画角・解像度・画面比率で撮影された映像は、即時的に流通し、それぞれ異なる主体の視線の痕跡として編集上で併置される。ところで、レフ・マノヴィッチは、現代の視覚文化を「インターフェイス越しの眺め」の時代と定義している。かつて「窓」として機能していたフレームは、プラットフォーム上での流通と反響を前提とした「インターフェイス上で眺める行為」へと変質し、イメージは大量に生産・消費され、互いに影響を与え合いながら形成されている。『未完成の映画』はこうした断片化に応じるかのように、カメラがもはや窓や鏡としての真実性を担保する装置ではないことを示している。

パンデミック下において、語られなかった時間や生活、記録されなかった他者の視線が、ソーシャルメディアを介して流通した事実を基盤に、ロウ・イエは「未完成である」という形式を作り出している。虚実が交差するフッテージ間の空白は、単なる欠落ではなく、ありえたかもしれない時間の痕跡として編集のなかに意図的に残されている。断片を断片のまま配置することで、ひとつに語られることのない記憶が立ち上がり、国家的ナラティブや検閲に抗うポリティカルな身振りが成立する。未完成であることそのものが、語られなかった他者を悼むようにして、虚構めいた現実に応答する批評的構造を成すようである。

★──「クィア・フィルム」は、統一的な物語に回収されることなく、分断された身体性や視線のネットワークとして機能しており、本作に通底するメタファーとなっている。

執筆日:2025/07/04(金)