会期:2025/06/28~2025/10/05
会場:国立国際美術館[大阪府]
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/20250628_hijou-no-jou/

前編で予告したように、本展のもうひとつの軸は、映像メディアそれ自体を多角的に問う自己省察にある。再び──今度は点と点をつなぎながら──旅に出よう。この旅もまた、円を描くように出発点に立ち戻ってくる。

穏やかな光が射しこむ無人のリビングルームが、「外」からの突然の襲撃によって次々と破壊されていく袁廣鳴《日常戦争》(2024)において、室内に入れ子状に置かれたモニターにシューティングゲームのプレイ画面が延々と流れていることに目を向けたい。室内で次々と起こる破壊行為と並行して、(不在の)プレイヤーも、銃を乱射しながらゲーム空間を進んでいく。安全であるべきプライベートな空間が徹底的に破壊される光景を、観客自身は一切脅かされることのない安全な位置から「鑑賞」できる。ここには両義性がある。①本作を鑑賞する者は、「画面の向こう側の世界」に一方的な破壊と暴力をもたらし続けるゲームのプレイヤーと同じ位置に立たされる。ここで、部屋の住人が「不在」であることは、「不可視化された他者」が生きる世界を破壊・排除することのうえに、私たちの「日常」は成り立っているのではないかという問いを突きつける。

②一方で本作を見る者は、まさにシューティングゲームのプレイヤーのように、全能感と結びついた視覚的快感を味わう。「人間の姿」が消し去られた世界を、非人称的で全能的なカメラの眼で見つめること。その視覚的快感は、ドローンの空撮による袁の《エネルギーの風景》(2014)と並置されることで、俯瞰する視線と権力や監視との結びつきに改めて立ち帰らせる。


袁廣鳴《日常戦争》(2024) シングルチャンネル・ヴィデオ(カラー、サウンド)、国立国際美術館蔵 [© Yuan Goang-Ming Courtesy the artist and TKG+]

また、35mmフィルム/3DCGやフォトグラメトリといったデジタル映像技術という対照性ながら、「映像と消費」「映像と廃棄物」という点で呼応するのが、シプリアン・ガイヤール《Artefacts》(2011)とキム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》(2022)だ。ガイヤールの《Artefacts》は、iPhoneで撮影した映像を35mmフィルムに変換するというアナクロニズムによって、時間の境目を撹乱しつつ、映像メディアそれ自体を再帰的に問う。ざらついた質感で映し出される、古代の遺跡と、コンクリートの巨大な墳墓のような現代高層建築。収蔵庫に眠る彫像や石碑などの遺物と、イラク戦争あるいは現代消費社会が生み出した荒廃した廃棄物の山。現実/非現実の境目や時代が曖昧に溶け合った、夢のなかのような映像世界だが、展示空間に置かれた映写機は、異様な存在感と映写のノイズを物理的に放つ。上映し続けることでフィルムは消耗し、いずれ交換せねばならない。映し出される過去の遺物や廃棄物は、やがて消耗品として廃棄されるフィルムの山と重なる。また、物質的基盤を必要とする映像メディアは、非永続性や脆弱性をはらむ。繰り返し映される「収蔵庫の中の遺物」と「石碑の断片を差し出す手」は、破壊の無言の証言者であると同時に、記録メディアが依存する「物質的媒体」の生の長さそのものを指し示す。


シプリアン・ガイヤール《Artefacts》(2011)[筆者撮影]

一方、キム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》が描くのは、AIの指示する配達経路に従い、最短距離でのバイク配達業務に従事する女性労働者の物語だ。AIが支配する配達プラットフォームは「ダンスマスター」と呼称され、ゲーム風のノリで指示される配達経路を最短時間で達成できたかどうかによって、並、名、強、神という4つの「レベル」が上がっていく。秒単位の判断や行動を課され、肉体的にも精神的にも摩耗していく労働と、まさにゲームのような競争社会。「レベルアップ」によって満たされる達成感がさらなる承認欲求を肥大させるゲームの麻薬的な設計と、達成度が上がり続ける現実の過酷な競争社会が重なる。その境目の混濁は、ソウルの都市風景の写真画像を基にフォトグラメトリで生成した、3DCGの都市空間の歪みとして現われる。機械が生み出した、綻びだらけの廃虚のような都市。その都市=廃墟をバイクで駆ける主人公もまた、消耗品のように「交換可能」な使い捨ての労働力の象徴にほかならない。「廃墟」は古代世界だけではなく、フォトグラメトリが描く歪んだ現代都市そのものでもある。


キム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》(2022)[筆者撮影]

実写映像と、そこからつくられたヴァーチャルな世界が交差する《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》において、「分岐した多重世界」と「透明化された存在」がキーワードとなる。本作は、映像作品から出発し、作品世界を舞台にしたゲーム、立体、アニメ風イラストの壁紙作品として派生的に展開している。ひとつの作品の世界観を基に、複数の異なるメディアで別の物語を語る手法を作家自身は「トランスメディア・ストーリーテリング」と名付けている。展示空間の入り口には、アニメ風の巨大なイラストが掲げられているように、この手法は、漫画やアニメ、K-POPなどのアイドル文化を「キャラクターどうしの恋愛」として二次創作するファンフィクション、特にBL(ボーイズ・ラブ)やGL(ガールズ・ラブ)と親和性が高い。

キム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》(2022)[筆者撮影]

そして、バイクライダーの女性主人公は、ビルの壁面を走るなど、現実の位相空間や物理原則を無視して走ることで、AIが設定した「最短配達時間」を突破できる「ゴースト」という最上位のレベルのライダーと出会う。だが、彼女はパラレルワールドに存在するオルターエゴであり、2人が同時に存在することをシステムは許さない。ここで、「ゴースト」とは、ギグワーカー、そのなかでも女性のバイク配達員という透明化された存在のメタファーである。さらに、「分岐世界に存在するもうひとりの自分」との愛憎に満ちた関係は、存在を不可視化されがちなクィアの物語を示唆する。彼女たちは、実写/3DCGという 描写 ・・ のレベルにおいても、多重に分裂し、異なる世界に引き裂かれ続ける。ソウルの夜を駆けるラストシーンでは、孤独なバイクライダーの映像と、恋人のように背後から抱きしめる2人乗りのバイクのカットが切り替わる。まばたきするほどの速さで消え去るカットであっても、2人乗りのバイクが「実写」であったことは、ひとつの救いだ。彼女たちは、この世界に、確かに同時に存在している。ただし、夜の暗闇に包まれてはいるが。


キム・アヨン《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》(2022) シングルチャンネル・ヴィデオ(フルHD、カラー、サウンド)、国立国際美術館蔵[© Ayoung Kim Courtesy the artist]

このように、《デリバリー・ダンサーズ・スフィア》の疾走感あふれる映像体験は、まさにゲームをプレイしているような視覚的快感でもある。だが、本展の最後で鑑賞者が出会うのは、リー・キットが空を描いた絵画に書きつけた「porn(ポルノ)」という単語だ。外界を四角いフレームとして切り取る「窓」としての絵画と、「見ること」がはらむ欲望。どこにでもある、同時にどこでもない匿名的な「空の絵」という空っぽの表面に、いや空っぽだからこそ、私たちは「見る欲望」を際限なく注ぎ込み続けることができるのだ。


リー・キット 展示風景[筆者撮影]

鑑賞日:2025/06/27(金)