2025年5月1日から10月26日まで、ベルリンのハンブルガー・バーンホフで開催されているクララ・ホスネドロヴァ(Klára Hosnedlová)の個展「embrace」。記憶、素材、空間、そして感情が複雑に編み込まれた本展は、神秘的な没入体験をもたらすインスタレーションとして、注目を集めている。ヴェネチア・ビエンナーレへの参加や、クンストハレ・バーゼルでの個展「GROWTH」(2024/02/09-05/20)など、近年国際的に評価を高めてきたホスネドロヴァにとって、本展はこれまでの実践を集約すると同時に、今後の展開を予感させる飛躍の一歩とも言えるだろう。

Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
本展は、CHANEL Culture Fundとハンブルガー・バーンホフとの3年にわたるパートナーシップから始動したCHANEL Commissionの記念すべき第1回プロジェクトである。2,500平方メートルにおよぶ歴史的駅舎を舞台に、空間と時間、記憶と想像の境界を揺さぶる壮大な芸術的試みが展開されている。
CHANEL Culture Fundは、芸術と文化を通じて未来社会のビジョンを問い直す国際的な支援プログラムであり、特に女性アーティストの表現支援を重要な軸に据えている。「embrace」はその理念を象徴するフラッグシップ・プロジェクトだ。CHANELのアート&カルチャー部門グローバル責任者ヤナ・ピール(Yana Peel)は本展に寄せてこう語っている。
「クララ・ホスネドロヴァのような卓越したアーティストに、インスタレーションと彫刻の限界を押し広げる機会を提供できることは、このプロジェクトの中核的意義です」
伝統と革新を織り交ぜたホスネドロヴァのアート・プラクティスは、過去と未来、地域と世界、身体と記憶の関係性を可視化し、「物語ること」の意味を現代に問い直している。
素材の記憶、風景の変容──幼少期から普遍性へ
ホスネドロヴァの作品において特に際立つのは、素材の選択とその扱い方である。本展において、彼女は、現在のチェコ共和国に位置するボヘミアおよびモラヴィア地域に根ざした素材──亜麻、麻、砂、ガラス、コンクリート、金属──を主に用い、それらを手工芸の伝統や地域のフォークロア、さらにはブルータリズム建築の造形言語と組み合わせる。こうしたアプローチによって、彼女は有機と無機、永続と腐朽、手仕事と工業という二項対立を浮かび上がらせている。
ボヘミア・モラヴィア地方は、かつて繊維産業やガラス工芸、民俗的慣習が豊かに息づいていた土地である。だがその文化的遺産は、帝国支配、戦争、共産主義体制、そして市場経済への移行といった幾重もの政治的変遷を経て、複雑な記憶の層を形成してきた。ホスネドロヴァは、1970〜1980年代の社会主義下に見られる建築様式や生活様式のなかに、「表現」と「抵抗」の双方の美学が共存していると語る。そうした「素材の記憶」を彼女は現代の芸術に再構成し、個人的でありながらも政治的な風景として提示している。
ホスネドロヴァは言う。「素材の背後にある地域の歴史や労働の記憶を空間に編み込むことで、幼少期の私的な経験が、誰もが共鳴できる想像の言語へと転換される」
天井から床までを垂れ下がる9メートルのタペストリーはその象徴だ。粗く編まれた麻と亜麻の繊維は、獣の皮膚や異形の生物を思わせる有機的テクスチャーを持ち、ブルーグレーや赤褐色などの植物染料がノスタルジックな情緒を引き出す。こうして「embrace」は、物理的な空間を通して、記憶の風景を再構築する場となっている。ブルータリズム建築を想起させる構造の中に、彼女が用いる有機的な素材や柔らかな形態が差し込まれることで、空間はその歴史的背景を保持しながらも、時間的な奥行きと語りの層を織りなすのだ。

Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
ローカルと紡ぐ──職人とのコラボレーション
ホスネドロヴァの制作の根幹にあるのは、ローカルの職人たちとの丁寧な協働である。チェコ国内に現存する最後の麻工場や、スロバキアの織物スタジオWNOOZOW、伝統的な手吹きガラス工房などと連携しながら、素材の採集から作品の制作に至るまで、多くの工程を共にしている。
たとえば、本展に登場する巨大タペストリーは、未加工に近い麻の繊維を用い、手織りによって時間と労働の痕跡を織り込みながら完成されたものだ。また、砂岩に埋め込まれたガラスは、伝統的な吹きガラス技術によって制作され、その曖昧な透明性が記憶の層や歴史の透過性を象徴している。
こうしたコラボレーションは、単なる「素材調達」以上の意味を持つ。それは。消えゆく産業の継承であると同時に、アートがいかにして「つながり」を紡ぎ直すことができるかを示している。

Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
刺繍の絵画性とハイパーリアリズム──語られぬ動作の肖像
ホスネドロヴァは、異なる素材を用いた大型彫刻と、ハイパーリアリスティックな刺繍作品を組み合わせる表現で知られている。なかでも刺繍におけるアプローチは特筆に値する。彼女はこの伝統的な技法を、まるで絵画の筆致のように扱い、身体の断片を極めて細密かつ写実的に描き出す。刺繍の織目に縫い込まれた指先、背中、火を灯す手の動作は、「行為の痕跡を写し取った肖像」として空間に浮かび上がる。

Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
そのモチーフの出自にも、ホスネドロヴァ独自の制作手法が表われている。刺繍の図像は、前回の展覧会「GROWTH」において実施されたパフォーマンスを映像記録し、その一部を切り取って構成されたものである。そして、「embrace」で新たに行なわれたパフォーマンスのシーンは、次回の展覧会で刺繍作品として再び現われる予定だ。こうして彼女の表現は、異なる作品や展示へと連続し、蓄積され、進化していく。素材と行為、記録と再現が、作品のなかで絶えず循環しているのだ。
「私は社会を視覚的な鍵を通じて批評したい。誰もが見たことのあるような道具を通して、日常の無意識的な動作を浮かび上がらせることができると思う」と、ホスネドロヴァは語る。スマートフォン、マッチ、UVライトといった道具が登場するが、その使用意図は明示されない。鑑賞者はそこに自らの記憶や経験を投影し、解釈することを求められる。

Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
こうした「語られなさ」の美学は、登場人物の顔を描かずに匿名性を保ちながら、むしろ鑑賞者の内面や、社会的無意識、文化的構造を映し出す鏡として機能する。その手法はまさに「反射的ノスタルジア」として、過去への感傷にとどまることなく、記憶と歴史を批判的に再構築する力へと昇華されている。
映像的風景──空間を編むレンズのまなざし
ホスネドロヴァが展示空間の構築にあたり参照したのは、チェコスロバキア・ニューウェーブを代表する監督、フランチシェク・ヴラーチル(František Vláčil)による映画『Markéta Lazarová』や『The Valley of the Bees』である。これらの作品に通底するのは、明確な物語性よりも、空気感や身体の質感、風景が持つ感情的な厚みを重視した演出だ。カメラは常に揺れ動き、静と動、光と影が交錯する映像詩が、観る者の感覚を深く揺さぶる。
ホスネドロヴァの「embrace」にもまた、空間の断片性、構成要素の重層性、物語の未完性が宿っている。
Klára Hosnedlová, “CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace”, 2025, Installationsansicht Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart, 1.5. – 26.10.2025[© Courtesy Artist, Kraupa-Tuskany Zeidler, White Cube / Nationalgalerie – Staatliche Museen zu Berlin, Zdeněk Porcal – Studio Flusser]
会場の床面には、彼女の故郷の歩道を想起させる3,000枚以上のコンクリートスラブが敷き詰められている。硬質な表面に映る水たまりや汚れは、空間に「時間の痕跡」を導入し、鑑賞者の移動そのものが風景の一部となる。彫刻の間を縫うように設置されたスピーカー群は、ベルリンのクラブ施設から集められ、チェコの女性合唱団Ladaによるモラヴィア民謡、Yzomandiasによる語りが織り混ざったサウンドトラックは作曲家ビリー・ブルトヒール(Billy Bultheel)が制作を手がける。この音響体験は、民族的記憶と都市文化が交差する音の風景を立ち上げ、過去と現在、土地と身体の間を漂うような時間感覚をもたらしている。
展示全体は、まるで「スローカメラによる長回し」のような構成となっており、鑑賞者は歩きながら風景のなかに自己を投影していく。水たまりや鏡面素材、重なり合う音や質感が相互に反射しあい、空間は垂直的にも時間的にも拡張されていく。身体と感覚が深く関わりながら生きた風景生成されていくのだ。
CHANEL Commissionが照らす、芸術と制度の未来
CHANEL Culture Fundが始めたCHANEL Commissionは、単なるスポンサーシップの枠を超え、公共文化機関とファッションハウスが協働し、文化制度の新たなモデルを提示する意欲的な取り組みである。CHANEL Culture Fundの中核には、文化機関のリーダーを支援し、革新的かつ長期的なプロジェクトを実現するCHANEL Art Partners、そして新進アーティストの活動を支援する賞CHANEL Next Prizeなどが含まれる。実際に支援の対象は、シカゴ現代美術館の若手キュレーター、ソウルのLeeum美術館の環境学者、ヴェネチア・ビエンナーレに参加する先鋭的なアーティスト、さらには英国映画協会に所属する次世代の映画監督など、多岐にわたる分野へと広がっている。
Klára Hosnedlová by Vitali Gelwich
今回のハンブルガー・バーンホフとのパートナーシップもまた、芸術を通じて未来社会の在り方を問い直すというCHANELの理念を体現しており、「embrace」は「包括性」「革新性」「柔軟性」「多様性」といったキーワードを象徴的に表わすプロジェクトとなった。この取り組みは今後3年間にわたって継続され、毎年新たなアーティストによる大規模なインスタレーションが展開される予定である。
ヤナ・ピールは語る。「CHANEL Commissionは、そのスケールと構想の大きさによって、ベルリンの文化カレンダーの中でも見逃すことのできない存在となるでしょう。革新と再生を象徴するこの都市において、美術館の象徴的なホールが、現代アートにおける国際的対話の中心となるのです」
Klára Hosnedlová, Performance in Berlin, 2024[© Courtesy of the artist and White Cube]
「embrace」は、場所に刻まれた記憶、個人の感情、社会の変容、そして芸術という形式そのものを問い直す装置である。ホスネドロヴァは、歴史・政治・文化の物語を丹念に掘り起こし、それらを織り込んだ未来的な風景を提示する。彼女の実践は、資本主義的な速度と消費の論理に抗しながらも、静かで確かなかたちで、私たちと他者を結びなおす場を創出している。そこにあるのは単なる郷愁ではない。記憶と歴史を批判的に再構成し、新たな文脈に投げかける行為、ホスネドロヴァが体現する「反射的ノスタルジア」は、鑑賞者を包み込むように空間全体に広がり、名のとおりの「embrace(抱擁)」として機能する。
CHANEL Commission: Klára Hosnedlová. embrace
会期:2025年5月1日(木)~10月26日(日)
会場:Hamburger Bahnhof – Nationalgalerie der Gegenwart (Invalidenstraße 50 10557 Berlin, Germany)
公式サイト:https://www.smb.museum/en/museums-institutions/hamburger-bahnhof/exhibitions/detail/chanel-commission-klara-hosnedlova-embrace/