会期:2025/06/27~2025/07/02
会場:Alt_Medium[東京都]
公式サイト:https://altmedium.jp/post/202506iwatameiko/
高田馬場・Alt_Mediumで岩田芽子の個展「開かれた庭」が開催された。愛知県の緑地公園を撮影したシリーズ写真がギャラリースペースを囲うように並び、その動画版といえるプロジェクションが1点、旧作の「borderland」と思われる白黒写真が1点展示されていた。
「開かれた庭」は2015年から2023年頃に撮影された写真群で、すべて同じ公園で撮られたものと思われる。ステートメントには「ある場所に身を置き、何かが強く私の注意を惹くとき、それまで「気づかれていなかったもの」が風景として立ち上がってくる」とある。その「気づかれていなかったもの」をきっかけに撮影された風景写真といえるだろう。
とても気になるのが、いずれの写真にも一人称の視線を感じることだ。というと、一画面につきひとつのまなざしというのは当たり前なようだが、風景写真にそうした印象をいつも感じるわけではない。レンズの種類にもよるだろうが、あらゆる細部にピントが合ったり、構図が整理されたりしているものは、それだけで人の目らしさが薄まる。
「開かれた庭」におけるアイレベルや対象との距離はまちまちだが、「見ている感じ」がすごくある。瞬間を捉えたというよりも、シャッタースピードよりも長い、対象を観察している時間が感じられる。そして撮影のきっかけとなる「気づかれていなかったもの」があまりに些細なために撮影者の存在が強調されず、「見ている感じ」ばかりが写真に漂う。画角を変えない動画作品も、いくらか幅のある時間を一枚の写真に凝縮する姿勢に基づくように見える。
この印象はいくつかの写真で画面の中心に配される、顔の見えない人々の存在にもよるだろう。ある程度離れた距離の向こうにお互いがいることに気づきながら、それ以上でも以下でもないという関係性がある。あちらもこちらも公園にいる者として存在し、撮影者は人がいることが前提とされる公共的な空間の一部となっている。
タイトルとなった「開かれた庭」は、自然の景観を取り入れるイギリスの風景式庭園に由来するという。18世紀にイギリスで活発化した、人工的な整形式庭園よりも作為性を減じた庭を志向する運動に関わる言葉だが、失楽園後の世界を前向きに捉えるための宗教的な企てを含む用語でもあり、そうした思想が本作と関わるのかはわからない。ただ人工的な整備とそれを凌駕する自然の要素が交わる緑地公園に佇み、感受した気配を眺める視線が宙に浮くようにして捉えられている。撮影者は何に気づき、何を見つめているのか、画面がはらむ微細な緊張感に強く惹かれる写真群だった。

「開かれた庭」展会場風景[筆者撮影]
鑑賞日:2025/07/02(水)