
会期:2025/07/05〜2025/09/23
会場・主催:静岡県立美術館
会場設計:桂川大(STUDIO大、おどり場)、小出一葉(おどり場)
デザイン:綱島卓也
公式サイト:https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/detail/124
大学の都市計画の授業で聞いた話。
「景観」という言葉は、「景」を「観」るということ。対象となる「景」を設計するだけでなく、「観」る場所や動きをよく考えないといけないのだ、とその先生は言っていた、と記憶している。
観られる対象としての建築物や工作物を設計しさえすれば、それで人の経験はできあがる、と思っていた当時の私には静かな衝撃であった。何かを作り、それを他者と共有したいと思うとき、それがいかに観られるのかを考えないわけにはいかない。どうぞご自由に、と言いたいかもしれないが、そこに生身の他者がいるということは少なくともわかっている必要がある。そして、“観る”とは、“見る”とは異なり、視覚に限ったものではない。ある場所に居ることから始まる経験のことだ。
展示室入場後に最初の壁面。中央に谷川俊太郎の詩が書かれ、異なる年代・作風の風景作品が4点並ぶ。右手に自立するのが本展のために用意されたキャプション什器。足元のタイルカーペットは塩ビタイルに置き換えられている[撮影:ToLoLo studio 中村マユ]
「これからの風景 世界と出会いなおす6のテーマ」は、静岡県立美術館のコレクション展である。つまり、同館学芸員によるキュレーションであり、収蔵品を中心とした展示である。同館の収蔵の中心である風景画・風景表現を用いて、「記憶/鑑賞/観光/場所/環境/対話」という6つのテーマに導かれながら古今東西のさまざまな風景を辿る。そこには描かれる「景」だけでなく、それらを「観」た作家の眼差しも含まれる。それを私たちは再び「観」る。風景画とは、「景観」そのものを観る経験でもあることが、本展では確かめられていく。このような風景と鑑賞にまつわる展覧会において、会場構成とサイン計画が重視されたのは想像に難くない。
展覧会紹介でも言及されている「鑑賞」は、触図や音声ガイドを用いた、視覚ではない感覚による絵画鑑賞の可能性を探る章である。アクセシビリティを拡張する試みを端的に扱うのはこの章だが、本展では展示全体を通じて、作品説明の日英のキャプションに加えて、児童向けの別キャプション、音声ディスクリプションが設けられている。またキャプション自体は本展のために設けられた什器に掲示されることもあり、6つの章立てを追うことと各作品を観ることが一体的な経験となるよう、会場が作りこまれている。
三角形断面の台には触図や部分複製、展示キャプションが並ぶ。画面右手に吊るされた庄司はるかの制作したテキスタイルは風景画における遠近法を触感の違いに翻案したインスタレーション。写真には写っていない右側に、額縁の複製(!)がある[撮影:ToLoLo studio 中村マユ]
しかし、収蔵品であり、本展で展示される作品の多くは、そのままでは鑑賞する私の身体を忘れさせようとする、あるいは不問にするものばかりだ、と私には思える。つまり、現代的な鑑賞の問いを(当時は)想定しなかった作品たちと言ってもいい。画面の筆致に負けないくらいの印象で陰影深く彫り込まれた太い額縁は、描かれた風景“のみ”を見せようとしてくる。作家の目にした「景」をそのままに見せることがひとつの目標であり、いかに「観」たかは隠されていた時代。一つひとつの作品は、額縁によって正対することが強く要請されており、歩いては立ち止まるという動きは、実際にある風景のなかを行く経験とは大きく異なる。日々の私たちにとって、正面とはいつも私の前面にあったはずだ。
それでも、そのキャンバスの手前に特定の誰かがいたわけだし、その後の数百年で数多くの名も知れない人たちが鑑賞のために同じ位置に立ってきた。展示の構造としては、前述したように「景」を「観」ることが反復されているが、当然それは同じものではない。あらためて、私が展示を通じて重ねているのは、「観」る身体の方である。だから、そうした観る身体を問うために重要な役割を果たしているのはキャプションだろう。展示という形式のなかでもはや自明な存在としてあるキャプションにこそ、私の身体を他者へ重ねる契機がある。前述したようなキャプションの種類と多さは、“普通の”展覧会に慣れた身には過剰に思えるかもしれないが、情報にアクセスしたいと思う者になるべく応えようというキュレーターの意思の表われである。風景は刻々と変化するが、一方でそこにあり続けてもいる。キャプションを読み込むこと、たびたび作品の正面へ立ち戻ることは、途中からまた見始められると考えてみたらよいのかもしれない。
各章、展示の中心をなすのはいわゆる風景画である。描かれた年代は様々だが、どれも太く分厚い額縁に納められている。キャプション什器は、部屋に対して斜めに置かれることもある[撮影:ToLoLo studio 中村マユ]
そうして歩いてまわった先に現われるのは、最後の「対話」の章だ。鑑賞した作品を描き、感想をシェアする小さなカードが用意されている。そのためのテーブルとライトが展示室の中央に設けられており、展示室はただ見るための部屋ではもうない。かつて作家がそうしたように、「景」を「観」ることがかたちを変えて繰り返される。この設えは、作品に正対することを繰り返した後だからこそ意味を持つ。カードを手に、再び展示へ分け入り、あの風景を探しに行くのだ。このとき、ようやく、作品は「景」になっている。館の設計上、順路の途中にあるラウンジは、従来の展示であれば休憩室として重要な部屋なのだろうが、今回はただソファベンチが置かれているだけだった。あの部屋こそさまざまな居方を試みることのできるスペースとして美術館が想定した空間なのだろうが、そことは別に「対話」のスペースをキュレーターやアーキテクトが設けたことに本展の特徴があり、また議論がなされるべきだろう。
展示室の最後に設けられたテーブル。上部からライトが吊るされている。画面右奥に並ぶのと、手前の円卓に置かれたものはすべて来場者により描かれたもの[撮影:ToLoLo studio 中村マユ]
会場となった静岡県立美術館は1986年に開館、設計コンペで選ばれた静岡設計連合(※複数の設計事務所からなる設計共同体。。JVと呼ばれ、大規模の設計プロジェクトや、高度な専門性が求められる際に組織される)により設計された。この土地で、日々、美術館のある日本平を眺めたであろう人々による設計である。低い軒のエントランスと薄暗いアトリウムによる周囲の環境から切り替え、展示室内で作品を「見せる」ことに注力したつくりは、石張りの内外装とあわせて、往年の公共文化施設の重々しさを感じさせる。外から入館したときの静けさは訪れた者に落ち着きあるいは緊張を感じさせるだろうし、展覧会の鑑賞後に外へ戻れば、外の眩しさに目を細め遠くに広がる街や山並みを眺められるのだろう。このシークエンスは、かつては美術を特別な存在に位置づけ、日常から切り離すためにあった。だが、連続的な経験というのは、何も境目なく設えられたものを指すのではないことを、本展を経た私はもう知っている。
筆者が訪れた日はあいにく台風が接近しており、あたりは白い雨雲に包まれ遠くは一切見えなかった。だが、この頂きが裾野から続くことも、その街から眺められることを、あの山を眺められることも想像できる。
さまざまな試みに満ちたこの展覧会はもう終わってしまったが、また異なる「景」のなかに、さらなる試みをまた「観」られるだろう。次は、晴れた日に訪れたい。
鑑賞日:2025/09/05(金)