発行日:2003/06/20
発行元:岩波書店
公式サイト:https://www.iwanami.co.jp/book/b268661.html
日本のテレビ放送におけるドキュメンタリー番組の元祖とされるNHK『日本の素顔』(1957-64)のディレクターを務め、その後も国内外のさまざまな題材を追うドキュメンタリー番組、大河ドラマなどのフィクションにも携わった吉田直哉による回顧録であり、戦後の日本国内におけるテレビというメディアの制作と鑑賞の様子を分析した一冊である。
章立ては時系列に吉田のキャリアを追っていく。1章では『日本の素顔』の初回「新興宗教をみる」の撮影場面に始まる。若いディレクター、経験のないカメラマンらとの撮影の試行錯誤、放送後の反響への困惑と分析が、勢いのよい文章で綴られている。この勢いは本書の終盤まで緩められることはない。
時代背景として、1950年代以前はラジオ番組としてのドキュメンタリー製作が試みられたことはあるものの、映像としては映画館で鑑賞するドキュメンタリー映画に限られてきた。また、戦中のそれらは国家のプロバガンダとしての機能を担っていた。「戦闘や事故、自然災害の映像ならばどんな人だって無条件に受けいれて見る。それを捉えた眼や主体など、まず問題にしない」と指摘する。「新興宗教をみる」で批判的に取り上げたはずの新興宗教の様子が、むしろその宗教の広報として機能してしまい、また「貴重な記録として賞賛された」ことは、(本書で明確には述べられていないものの)吉田の戦中のメディア経験と地続きなものであったのではないだろうか。
吉田にとって「素材」である実在する出来事や風景を収めた映像もまた、「素材に還元され、そのものの記録、即物的資料として再利用されるだけ」のリスクがある。「考えるカメラ」として、映像を通じて仮説と検証を伝えようとも、最後には素材に戻ってしまう。「どぎつい素材」であったインドのハンセン病療養所での取材が没になった経験(6章)を経て、「素材主義」への警戒から「目立たない素材」を対象にする。動かない図像である紋所を写すという企画(7章)を経た吉田は、人探しをする人にカメラが随伴することで東京という都市風景を映し出そうと『TOKYO』(1962)を発表する。
8章で語られる『TOKYO』の顛末は、映像というものが「素材」だけが見えるのでもなく、撮影という行為や技術だけを見せるのでもなく、撮影にまつわるあらゆる行為や実存と関わることをよく示している。
吉田はたまたま知り合った生き別れの母親を探す若い女性の彷徨を通じて「心象風景としての東京」を写そうとした。彼女はそのためにカメラを牽引する存在でしかなく、「ほんものを用いなければサギになる」という、(何が“ほんもの”であるかという問いも含めて現在にまで至る)当時のメディア意識に押されながらも、「母をさがしているという彼女の人生の実在性は、ほんものにはちがいないが、私にとって利用できる『借景』にすぎなかったのだ」と吉田は述べている。
だが、放送には東京だけが映るのではなく、東京で母親を探す彼女の姿も写っているのである。結局、放送を見た母親からの連絡で果たされた一時的な再会は、母親による彼女の財産持ち逃げと蒸発へと至る。この章は、吉田の後悔と反省を強く述べたものになっており、「実人生」にカメラを向け、放送することの行き詰まりを示す。
この経験からドキュメンタリーの現場を一旦離れた吉田は、大河ドラマのディレクターとなる。9〜11章では歴史の史実を元にするフィクションを作った経験が語られ、作劇の考え方や、演じる俳優と役の関係など興味深い論点が多く含まれる。1960年代の『太閤記』『源義経』が題材であるが、作品演出に対する視聴者からの脅迫を含むこともある投書(〇〇演じる登場人物を死なせるな/あのような死なせ方をしたことを恨む/なぜあの話を映さない、など)のエピソードは、形を変えて現在もSNSを中心に制作者と視聴者(鑑賞者)との間に可視化されているやりとりそのものであり、時代にかかわらず普遍的にある、鑑賞を通じて可視化される欲望が垣間見える。
12章ではテキストと映像の関係が語られ、13章では遠い地点の風景や過去の時点を扱うことがすでに「バーチャル・リアリティ」であるとされ、11章までに語られてきた実在の人物を通じて映像が語ることの乗り越え方を吉田が発見したことが示唆される。14章では世界各地の史跡を映した『未来への遺産』(1974)の背景に、廃墟に重なるさまざまな時間を見出す目があること、それが制作者から鑑賞者へ引き継がれていく可能性と、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの映像から空間演出まで含んだプロバガンダが表裏のように述べられている。
15章では、俳優の吉永小百合がナビゲーターかつ再現ドラマの役を演じた『ミツコ──二つの世紀末』(1987)を紹介しながら、映像が鑑賞者との間でどう直接的な関係を結べるのかを考察する。16章に至って、吉田は映像というメディアが(放送を念頭に置いてきたからこそ)保存媒体に依拠する「虚業だといわれる」ことを嘆きつつ、『未来への遺産』を観て考古学者を志したという中村誠一のエピソードを引きながら、映像という廃墟を残すことへの希望を記して本書を終える★。
後半へ進むにつれ、吉田の文章は映像そのものの機能や質を中心に語るものへ変わっていく。それにつれ、(本書に記された範囲からしか語れないことではあるが)「撮影」において吉田が対象にどのように振る舞ったか、「編集」においてどのような取捨選択の判断があったのかはほとんど窺い知れない。映像作家や写真家たちの持つ、カメラを向ける一方的な暴力性への葛藤や、どこまでも当事者ではないことへの居心地の悪さは、吉田の文章からは感じられない。つねに、映像のあり方が問題とされ、吉田本人のあり方は問われない。「素材主義」に陥ることを警戒し、「考えるカメラ」を標榜した吉田の立ち振る舞いは、どこまでもディレクターのそれであり、彼はカメラの、モニターの傍らにいつもいて、正対を避けた位置にいる。
だが、ディレクターという立場から現場を駆けずり回ったことは事実であり、彼がいったいなにを現場で差し出し、これらの映像を放送したのかの想像は尽きない。単なる「素材」にせず本書を読み、踏み止まり、ここに描かれていないことをこそ読みたい一冊だ。
★──本稿の執筆時、ちょうどテレビ局製作のドキュメンタリー映画の記事を読んだ(毎日新聞「映画の推し事:『逮捕時犯人視報道』は変えられるか 弁護士テレビ記者が自ら問う冤罪の構造『揺さぶられる正義』」)。関西テレビのディレクターであり、弁護士資格を持つ上田大輔監督による新作『揺さぶられる正義』(2025)についてのインタビューである。司法と報道のあり方を問う本作について、この映画製作が関西テレビの報道を実際に変えたのか、またメディア全体を今後変えうるのかを投げかけてインタビューは終わる。本書にもみられるように、現代にも通じる問題はこれまでもあったしこれからもありうる。いつか変わる、ということを無責任な物言いではなく、希望を引き継ぐ実ある言葉にできるよう、映された映像を観たうえで次に何ができるのか、である。
執筆日:2025/09/17(水)