ツアーはさまざまな地域で実施されており、台本と風景の組み合わせがそれぞれに工夫されている[筆者撮影]
地球の46億年の歴史を4.6キロの歩行に置き換えて体験するツアープログラム、というのが、ディープ・タイム・ウォークのあらましである。
イギリスのシューマッハ・カレッジのステファン・ハーディングが発案したディープ・タイム・ウォークは、世界中にツアーを行なう人(認定ファシリテーター)が多数おり、各地で独自のツアーを開催している。オリジナルを完全にコピーすることを目指す人もいれば、アレンジを加え、ファシリテーター個人の独自性を強める人もいる。
筆者が参加したのは、ディープ・タイム・ウォークをイギリスで体験した前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長・教授)による独自の企画であり、彼なりのアレンジが含まれた独学のものであることをあらかじめ断っておく。
今回のツアーは、前野が暮らす神奈川県横浜市の港北ニュータウンの遊歩道沿いで実施された。20名弱の参加者が集まった。他地域でのディープ・タイム・ウォークへの参加経験がある人、前野の講義やワークショップを受けている人、地元の人、知人に誘われた人。自身がツアーガイドを務めている人もいた。
自己紹介とディープ・タイム・ウォークの概説の後、46億年前の地点へ移動し、ツアーが始まる。
ところで、46億年という時間経過を4.6キロの空間移動へ変換するというのは、かなり複雑な意識の転換である。1メートルの移動=1万年の時間経過。仮に、白い紙に長く書かれた年表の上を直線に歩き続けるのならこの対応関係は想像しやすいかもしれないが、参加者が歩くのは、個別に具体的な土地の内である。
ゆえに、1メートル歩くのに必要な1秒にも満たない時間が今日は1万年の時間経過に当たる、というのがこのツアーの肝だと言える。「1メートル歩くのに1秒かかる」という普段の経験において、時間は私の周囲を流れるものと理解される。一方、「1メートル歩くと1万年が経過する」というのは、私の歩行こそが時間を推し進めるという認識をもたらす。私たちは記された年表の上を歩いているのではなく、自ら時間を進めている。そのような歩行が、ディープ・タイム・ウォークを支えているのだ。
(ツアーパフォーマンスとしてディープ・タイム・ウォークを捉えるならば、この時間と空間の認知を書き換える段階を丁寧に進めてこそ、約2.5時間のツアーで語られる内容が活きてくるのではないだろうか? なお、この変換につまずいた様子でいるのはどうやら私だけのようで、数字の対応関係の明快さが、前提をわかったことにするのに大きく寄与しているようだった)
スタート地点の様子。ルートはニュータウン内を広域につないだ遊歩道で、公園や公営の施設、学校などが隣接する[筆者撮影]
ツアーは46億年前のビッグバン直後、溶岩の海、空は赤黒く、生命体の存在しない地表の風景から始まる。目の前には、夏場は子どもたちが集まるであろう遊水地。岩石が埋め込まれた有機的な造形のプールの脇を歩き、次の時点/地点へ向かう。公園の喧騒から少し離れた裏道を進み、竹藪の丘を上り下りしていく。「なるべく雑談せずに、その時代のことを想像しながら進んでください」と伝えられる。私たちを取り巻く一切が存在しない、そして風景を観る生命も存在しない時代のことを想像するのは難しい。翻って、揺れる竹、足元の地面の音、揺れる光に、ただ目を奪われる。
いま・ここではない時点/地点を、ここに集まる人たちと想像する経験。教育プログラムとして始まったものであるが、どうあってもこれはパフォーマンス、それも演劇の技術的な問題を含んでいる。ブラックボックスでは「何もない」劇場の舞台上に風景を観ることに想像力が用いられるのに対して、ディープ・タイム・ウォークでは目の前の風景の一切をないことにし、上書きする想像力が求められる。
また、制度的な劇場と異なるのは、感覚する身体を抽象化する柔らかな座席や仕組みを隠された照明・音響がそこにはないことだ。私たちはこの身体のままで、現にある土地を歩いているし見聞きしている。
見聞きする風景はただ言葉で語られるのではない。そこには風景と連携した演出がある。演出のきっかけとなる台本上の節は、例えば生命の誕生や、水の出現、大気の出現……。特に生命の誕生以降は、環境変化が生物多様性と切り離せなくなっていく。環境の記述で進めるか、生物への感情移入を求めるか。いずれにせよ、想像力を喚起するための声かけが発生する地点は基本的に同一である。「〇億年前」あるいは「〇億年後」、いずれの語り方を選ぶかもガイド次第だが、話の発生地点は共通しており、演出方法にも基本の型がある。
例えば地球への水の登場。多くのツアーで、実景の水辺にここで初めて遭遇するようルートが組まれることが多いようだ。地域によってはここで森を抜けて海が見えることもあるという。今回は、遊歩道の途中にある池が観る対象に選ばれていた。まだ夏の暑さの残る午後、晴天の下、池の畔には釣りをする子どもや、ベンチで語らう人がいる。逆説的に、これまで7億年の間は水のなかったこと、こうして人類という生命体が水辺に佇むまでに恐ろしいほどの時間が必要であったことがこの時点で想像され、これからの道程への予感が生まれる。現実の風景と過去を想像することを重ねる技術はここではっきりと自覚される。これ以降、大気や植物と、実景にある要素がひとつずつ復帰してくる。そのたびに、私たちはいまここにいる私たちであることに近づいてくる。
強い風景への遭遇が台本の節であり、またツアーにおけるハイライトであるなら、当然その前後がある。水の登場以降、30分近く、劇的なことは起こらない。10億年の間、「なにもおこらない」のである。このある意味で退屈な歩行もまた、ディープ・タイム・ウォークのハイライトである。
(退屈であると理解することと、その退屈を経験することは異なる。退屈をしのぐために参加者同士の雑談が許容されるが、そのことで私はいま現在の1メートルを1秒で進む身体に戻ってしまった。この退屈のなかにいてなお、1メートル歩けば1万年進むと信じ続けるためには、やはり演劇の技術が必要だと私には思えた)
こうして節々に身体的な喚起を挟みながら、ツアーは続いていく。ディープ・タイム・ウォークの結末はあらかじめ知られているし、その演出について予感されてもいる。ゴール地点の最後の1メートルの間に人類史が詰め込まれるのだ。歩くこともできない短すぎる距離のなかに、私たちと呼びうる社会/集団の認知してきた歴史がある。ひとまたぎできてしまう距離を眺め、そのなかにある機微を見て取ろうとする。
改めて、地球の歴史とは、誰もが知っている話のようでいて、実感を持って知ってはいない話の極みである。わたしたちはそれを“本当に”知っていますか? という問い返しなくして、1メートルにも満たない細かな歴史のなかを進むことは叶わない。たしかに、ディープ・タイム・ウォークは、教科書を読むのとも、テレビの教養番組を見るのとも異なる仕方で私たちによく知られた事実を語りなおす。それでもまだ、わかった/知っていると言い切らず考え続けるために、演劇の、広くいえばアートの諸技術は、私たちの思考と歩行をもっと後押しできる。
同時に、その人個人の実感からしか立ち現われない語りもあるし、それこそが技術だとも言える。オリジナルの台本に追加された語りがそのひとつだ。終盤、前野は遊歩道沿いの花に参加者の注意を促し、この花がいつからこの世にあるのか、と問いかける。写真撮影が趣味だという前野が、路傍の花に日々向けていた眼差しはぐんぐんと伸びていき、この地点/時点から、数百年前の、地球で初めての花へと向かっていく。
このような語りが、語りが引き起こす想像が、参加者それぞれの日々にあるだろう。演ることでしか起動しない想像力があることを私は思い出す。これは、地球についての話であるとともに、地球についての想像力の話でもある。
ゴール地点は遊歩道の途中であった。このディープ・タイム・ウォークで看板のあたりまでたどり着くにはあと数十万年の歴史が必要である[筆者撮影]
参加日:2025/09/28(日)
[筆者補注](2025年11月18日)
本稿で取り上げたディープ・タイム・ウォークについて、主催団体のレポートが公開されました。
https://www.well-being-design.jp/news/1412/
ルート情報も公開されていますので、合わせてご覧ください。筆者のアンケート回答も一部引用されています。