
会期:2025/10/30〜2025/11/03
会場:浅草九劇[東京都]
作・演出:細川洋平
公式サイト:https://horobite.com/play/awaitingthelight/
人と人との関係は重ねてきた時間によってかたちづくられている。では、そうして重ねた時間が、あるとき不意に消え去ってしまったとしたら?
ほろびて『光るまで』(作・演出:細川洋平)は、「これは、私の劇です」「私の中にある、たったひとつの真実の話でもあります」というミライ(藤代太一)のモノローグではじまる。実家が「ヤバそう」と言う妻・ウニ(藤井千帆)に連れられ、何が何やらわからぬままに妻の実家へと向かうミライ。出迎えたウニの母・エヴァー(佐藤真弓)と兄・八月(佐藤滋)はしかし、ウニによればまったくの別人らしい。ウニはどうにか別人である証拠を掴もうとするのだが──。
[撮影:明田川志保]
[撮影:明田川志保]
家族入れ替わりの謎を追うサスペンスかミステリーかという出だしである。家族と折り合いが悪かったというウニの帰省は10年ぶりで、ミライがウニの家族(?)に会うのも実のところ初めてなのだという。だが、家族が「とにかく憎くて憎くてしょうがなかった」はずのウニは、エヴァーと八月のどこかとぼけた歓迎を受け、「どうしてこの家のこと、苦手だったのか忘れちゃった」と、別人問題は解決しないままに実家に泊まっていくことにする。それどころか二人はその後も滞在を続け、いつしかウニは別人だと言っていたはずのエヴァーと八月を「紛れもなく家族」と言うまでになるのだった。ミライもまたそこに馴染もうと日々を過ごす。描かれているのは、過去を水に流すことで再生する家族の姿、なのだろうか。
[撮影:明田川志保]
だが、やがてミライが「この家族の一員になれたのではないかと思うように」なった頃、不意に歪みが顕わになる。ずっとここにいることも考えているというミライに対し、「あなたはずっとここにいるわけにはいかない」と応じるエヴァー。「だってあなたはこちら側じゃない」からと。そして明らかになるのは、その家が「誰の家でもなくて、家族をやろうとして集まった四人の家だった」という「真実」だ。描かれていたのは「過去を水に流すことで再生する家族の姿」などではなく、積み上げてきた時間を戦争によって家族もろとも吹き飛ばされてしまった人間たちが、なんとか互いに寄り添い家族であろうとする姿だったのだ。過去の消滅に肯定的な意味を見出す余地などないことは明らかだろう。そして四人のなかでミライだけが、瓦礫の中からウニを救い出したミライだけが、ウニたちの国を攻撃した側の人間だった。
[撮影:明田川志保]
ミライは語る。「私の劇では、国が違っても、私とウニは夫婦になって、お義母さん役のエヴァーさんと、お義兄さん役の八月さんと、四人で楽しく笑いながらささやかに生きていくんです」。美しい未来図。問題があるのはそれを拒否しようとするエヴァーたちの方ではないだろうか? だが、それが欺瞞であることは誰よりもミライがよく知っている。ミライは力でもってウニたちをこの未来図に従わせ、「幸せな家族」という「たったひとつの真実」でもって幕を下ろそうとする。しかし幸せな家族の像は「だけど、本当は」という言葉とともに変容し、そこに浮かび上がるのはミライがウニらに暴行を受ける凄惨な場面だ。過去をなかったことにして関係を築くことなどできはしない。だが、それは良くも悪くも、育まれた関係を人は無視することができないということでもある。凄惨な場面はさらに反転し、ミライの首にかけられたウニの手はいつしか、心肺蘇生を試みるそれへと変わっていくだろう。あるいはそれは、関係などなくても人はときに他人を助けようとするのだという「真実」を示しているのかもしれない。ミライがかつて、そうしたように。祈りのような時間のなかで物語は閉じる。
[撮影:明田川志保]
だがこの結末は果たしてフェアだろうか。自身も家族を亡くしているという意味では、ミライもまた戦争と国家の被害者であることは間違いない。最後の場面が、国家間のしがらみを捨て、個人として人間として互いを助ける姿を示したものであるのならばそれはもちろんあるべき姿だろう。だが同時に、物語の構造上、ミライは明らかに力を持つ側の、言い換えれば加害側の象徴でもある。ここでいう力は腕力=武力に限られない。ミライはこの『光るまで』という作品の語り手でもあり、だからこそ自分に都合のいい物語を語ることができたのだった。そのようなミライの姿に、第二次世界大戦における加害の記憶を捨て去ろうとしている日本という国の姿を、そして自国に都合のいい理屈を並べ立て、武力で他国を支配しようとする国々の姿を重ねて見ることはあながち間違いとは言えないはずだ。だとすれば、あのラストシーンは加害側にあまりに都合がいいというだけでなく、観客を被害者の側にアイデンティファイさせ、問題を個々人の人間性に収斂させてしまうという点においても問題があるだろう。そのほとんどが日本在住者であるだろう観客が向き合うべきは、自身の鏡像としてのミライの姿であり、それが体現するものであったはずだ。
一方、ラストシーンほどあからさまではないものの、小さな希望は作中のあちこちに散りばめられている。舞台上のテーブルの上には大量の紙片が散らばっていて、ミライがそれを手に取るたびに、エヴァーや八月は自身の過去らしきものを語り出す。支配的な物語=歴史となるにはあまりに個人的で小さく断片的な言葉たち。だがそれらを聞くことから編み上げられた物語は、力ある者にとって都合のよいそれとはまったく異なるものになるはずだ。ミライはたしかにそこに触れていたはずなのだ。強くわかりやすい物語ばかりが持て囃される現在だからこそ、容易ではないその営みを諦めたくない。
[撮影:明田川志保]
ほろびての次回公演はしばらく先になるようだが、2026年3月にはせんがわ劇場ディレクターズセレクションの第一弾として細川の新作書き下ろし戯曲『ピギーバック』の生田みゆき演出での上演が予定されている。
鑑賞日:2025/11/02(日)