会期:2025/11/01~2025/11/03

会場:東京芸術劇場[東京都]
公式サイト:https://autumnmeteorite.jp/ja/2025/program/ergonomicembryo

前編より)

花形は自身の実践に関して、たびたび「捻転」という言い回しを用いる。これは即座に、荒川修作が好んだ「反転」というワードを想起させる。さらに言えば、荒川は「姿勢が不自由になることによって、人は自分の『neighbor』を知ることができる」とも語っており★1、ここにも姿勢という問題意識が通底していることが見てとれる。この点について江永泉は、荒川が建築やランドスケープという環境の改変を介した外在的なアプローチをとるのに対し、花形は身体を直接的に改変する内在的なアプローチをとっていると整理した★2

荒川は、死すべき存在としての人間の天命を反転することによって、死なない身体をつくり出そうとする。それはすなわち、重力とそれによって規定される姿勢の歴史に抵抗する身体であろう。一方、タイトルに示されるとおり、本実験における映像と姿勢のフィードバックループはエルゴノミクス──すなわちサイバネティクスがつくりあげた再帰性による最適化のアプローチ──を下敷きにしている。花形が語る「技術や⼈間が互いに対して『適応しようと揺らぎ続ける境界的な⾝体』を持つこと」とは、まさにこのエルゴノミクスの思想である。ここで興味深いのは、エルゴノミクスとは“ergon”(労働)と“nomos”(法)から成る語であり、いわば社会的に規定された天命への最適化の手法だということだ。重力によって強制/矯正される姿勢に抵抗することで反転を目指す荒川に対し、花形は「椅子に成る」という曲解された新たな天命を得る=捻転することによって、エルゴノミクスのシステムを異様な方向へと再駆動する。では、椅子と姿勢を巡る想像にはどのような展開の余地があるだろうか。

よく知られたように、人類は直立二足歩行という姿勢を獲得したことによって、頭部の巨大化とそれに伴う高知能化を果たした。加えて、体重を支えることから解放された腕を、さまざまな用途を兼ね備えた器官として発達させるに至った。すなわち、道具をつくり使うという人類の特徴自体が、その姿勢によってデザインされたわけだ。一方で直立二足歩行は、内臓やその内容物に常に重力がかかり続けるため、肛門括約筋を発達させる必要を生んだ。これによって人類は、排泄に時間と意識を割くことを余儀なくされたのだ。排泄もまた姿勢の問題であり、同時に椅子とも深く結びついている。西欧において、椅子はもともと神の座であり、そこから王をはじめとする権力者の象徴、そして大衆の生活器具へと変化していった。それに伴い、膝を抱えて地面にうずくまる排泄姿勢もまた、椅子に座る形式へと変化していく。その結果、古代ローマにおいてトイレは社交場のひとつとされ、中世以降は衣装部屋や書斎といった住宅機能と癒合しながら発展することとなる。すなわち西欧文明は、生活や労働のなかにおける椅座姿勢からシームレスにつながるものとして、排泄行為を包摂してきたわけだ。これは例えば、「椅子」と「糞便」を同時に意味する“stool”という単語を見ることで即座に理解できよう。そしてここには、近代以降における排泄と身体の距離感を巡るアンビバレンスが示されてもいる。排泄をエルゴノミックに追求するならば、トイレは排泄の瞬間までは椅子として身体と一体化している必要があるが、それ以降は徹底的に身体から切り離された不可知の領域であることが要請される。やわらかくカオティックな肉体と、冷たく清潔な機械が擦れ合い、痙攣する場所。すなわち、トイレとはマン-マシン・システムが引き裂かれる現場そのものなのだ。それは、身体への技術の最適化の果てに開いた裂け目であり、花形が言う捻転にも通じるものだろう。

あるいは排泄を介して、椅子とは異なる姿勢制御の歴史を見ることもできる。デザインリサーチャーの井上耕一はアジアからアフリカまでの広範囲にわたる地域の生活をリサーチし、各地に暮らす人々が両膝を立ててしゃがんだ姿勢で日常のほとんどの事柄をこなす様子を記録してきた。井上はこの姿勢を「あの坐り方」と名付け、椅子と地面の中間に位置すると同時に、原始的な排泄姿勢にも通じるものだと指摘する★3。すなわち、西欧文明が排泄を椅座に包摂する以前から、人類にとって座ることと排泄は地続きの存在だったかもしれないわけだ。加えて井上は、人々が「あの坐り方」を維持するために用いる高さ10cm未満の「腰かけ」にも着目している。西欧的な椅子と明らかに異なるそれは、一体いかなる身体をつくり出しているのか。花形は「CHIMERIA」において、キメラたちが排泄するための新たな方法を模索していたが、本実験における椅子もまた、ニュートラルな座具としてではなく、こうした広範な文脈から捉え直されるべきだろう。

かつて、建築家の藤村龍至がTOTOギャラリー・間で開催した個展「ちのかたち──建築的思考のプロトタイプとその応用」では、《DEEP LEARNING CHAIR》(2018)と名付けられた椅子が展示されていた。これは以下のような手順で制作されている。①「椅子」というキーワードにもとづく画像検索結果を分析し、それらを統合するような3Dモデルを人力で作成する。②この手続きを世界9ヶ国語で行ない、計27の3Dモデルを作成する。③各モデルをパラメトリックに変形させることで、多量の画像データセットを作成する。④作成したデータセットを用いた深層学習によって、椅子の3Dデータを生成するシステムを構築する。⑤生成結果のうちのひとつを実用スケールで立体化する。すなわち、各言語ごとの「椅子」のイメージを結びつけるようなある種の理想像を、入れ子状になったマン-マシンの協働系を通じて探索しているわけだ。最終的に立体化された椅子はなんとも間の抜けた形状を成しており、その仰々しい制作プロセスとのギャップによるアイロニーを湛えている。画像から高精度の3Dデータを瞬時にAI生成することが当たり前となった現代においては、もはやノスタルジックですらあるだろう。しかしその不定形の姿はどことなく、本実験において映像のなかに結ばれる椅子の像に似ているように感じられる。あるいは、画像から立ち上げられ、はじめから着席可能性を顧みられていないという点においても両者は響き合っているだろう。検索システムとパラメトリシズムによる擬似的な網羅性の先に仮構された、ハリボテとしての普遍的な椅子と、今・ここの極めて個別具体的な身体から立ち上がるエゴイズムの椅子が重なるとき、そこには新たな椅子のアーキタイプが現われるのだろうか。

椅子はかつて神のおわすところであったが、今やそれは労働のためのコックピットであり、身体の統治のために姿勢という天命を矯正する器具である。たとえそこから立ちあがろうとも──立ちあがるという表現がすでに椅子の存在を前提としているように──私たちは逃れることができない。だから座り続けよう。新たなるなにかが、その上に腰をおろす瞬間まで。

鑑賞日:2025/10/31(金)(ゲネプロにて鑑賞)

★1──荒川修作、藤井博巳『生命の建築』(水声社、1999)
★2──江永泉「サイボーグの園丁:花形槙」(舞台芸術祭「秋の隕石 2025 東京」コンセプトブック『文脈たちの宴』所収)
★3──井上耕一『アジアに見るあの坐り方と低い腰掛』(丸善出版、2000)および、2019年に世田谷文化生活情報センター生活工房で開催された展覧会「〈すわる〉を旅する-アジアとアフリカの、あの坐り方と低い腰かけ」を参照。