
会期:2025/11/07~2025/11/10
会場:EASTEAST_TOKYO 2025会場内(科学技術館駐車場)[東京都]
公式サイト:https://www.contokyo.com/jyu-epi3-edge/
同時代の事象として目撃すべきこと──「獸」という出来事
2025年11月1日。墨田区・東向島にほど近いショップ「モードの悲劇」でイベントがあるというので夕方ごろに向かい、アフターパーティまで顔を出させてもらう。パーティの会場はショップから少し離れた商店街裏手にある奇妙なバーで、古民家の床下を掘り抜いた巨大な穴を囲んで参加者たちが座っている。私は近くの青年に声をかける。Ans Dotsloevnerで働いているという彼に仕事を訊かれ、文章を書いてます、アートレビューとか、などと答える。すぐさまこう返される。「じゃあ、来週の『獸』も行きますよね?」──そのとき、「獸」がどのように受容されているのかが少し、腑に落ちた気がした。若者たちに素朴にアートとして認識され、真っ先に名前が挙がる存在。そしてなによりも「同時代の事象として目撃すべきこと」として扱われているという点において。
「獸」シリーズは、アーティスト・GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE(以下、GCD☆GCD)が継続的に主宰するアートプロジェクトであり、黒い獣へと変じる主人公についての物語を、全7章・7年間をかけて描くとされている。7年。ランドセルを背負っていた少年が青年になる程度の時間。思春期の全部──岡崎京子がウィリアム・ギブスンの詩を借りてうたったような、短い永遠。7年間にわたるプロジェクトをすべて追うことができる人間は限られているうえに、プロジェクトが進むにつれて、鑑賞者たちもまた子供から大人へと変身していく。ゆえに「獸」は、安定した鑑賞者の存在をはじめから想定しえない。
初期からプロジェクトに関わるデザイナーの八木幣二郎は「『獸』の最初の打ち合わせで漫画の巻数を集めるみたいに展示を7年間見たら何かが分かるようにしたいって言われて。それ、おもろってなった」と語っている★1。しかし実際の「獸」の催しは基本的に再現不可能である★2ため、それは物語のアーカイブメディアとしての単行本というよりも、読み捨てられることを前提とした雑誌に近いあり方だと言えよう。かつて、多くの少年たちがジャンプの誌面で『BLEACH』や『NARUTO』の連載を追いかけ、完結を迎えるよりも早く卒業していった。しかしこれらの作品は間違いなく、その時代を象徴する物語として人々に共有されている。だから「獸」を考えるうえで重要なのは、物語すべてを網羅したマニアだけが理解できる真相ではなく、むしろ作品の途中で参加・離脱していく人々がなお「それを読め/語れてしまう」のはなぜなのか、ということであろう。そしてこれは、雑誌連載の獲得・維持を作家にとっての大目標とすることで発展してきた、日本漫画システムの独自性へと直結する問いでもある。
空気感とアーカイブ
変わってしまうこと。見逃してしまうこと。飽きてしまうこと。そうした可能性を引き受けつつ、それでもその瞬間において確かに熱狂すること。GCD☆GCDやその周辺のアーティストたちは明らかに言語・文脈への偏重から離れようとしており、ビジュアルやサウンドといった感覚的体験の共有によって立ち上がる空気感をこそ信じている。しかし同時に、GCD☆GCDおよび「獸」はそうした刹那性や共時性にすべてを賭けているわけではない。例えばGCD☆GCDは自身の制作について語る際に、「アーカイブ」や「物語」という語彙をよく用いる。「周りの友達や親や兄弟などの話を織り込んでフィクションを作れば、自分たちの時代のアーカイブになる。アートってその時代の空気感をアーカイブしたものだと思うから」。GCD☆GCDは、自分たちの世代的連携を超えて作品が伝達していくことを信じている。それは必然的に、テキストによる分析的なアーカイブとは異なる性質を持つはずだ。では、GCD☆GCDの作品に固有のアーカイブ性とはなんなのか。それを見極めるためにも、まずは具体的に、今年の「獸」について眺めていこう。
今回の「獸(第3章/EDGE)」は「獸」シリーズの4回目にあたり、アートフェア「EASTEAST_TOKYO 2025」に合わせて、同会場内で開催された。科学技術館横の駐車場に組まれた円形の足場は黒いメッシュシートで覆われ、外から中の様子をうかがうことはできない。その外観はさながら、スタジアムのミニチュアのようにも見える。実際、「獸」はこれまでも音楽ライブと密接した展示の展開によって特徴づけられていたわけだが、今回はいよいよその祝祭性が全面にあらわれていたと言っていいだろう。GCD☆GCDによるインスタレーションとして位置付けられた会場では、ミュージシャン、DJ、パフォーマーといった広義のアーティストたちが入れ替わり立ち替わり出演し、出口ではグッズの物販が行なわれている。
「獸(第3章/EDGE)」会場風景[撮影:Daiki Tajiri]
「獸(第3章/EDGE)」会場風景[撮影:竹久直樹]
では、GCD☆GCDはこれらパフォーマンスのセットリストを通じて、第3章の物語を語ろうとしているのか。そうではない。入場が事前の時間指定制となっていることに加え、アーティストの出演タイミングは鑑賞者には告知されておらず、人々は自身が会場の内部へと足を踏み入れた際に起きている事象を「偶然」体験するほかない。これは、今回の鑑賞体験が各々にとって個別固有のものであることを宣言、または念押しするような態度であろう。同時に、そんなバラバラな鑑賞者たちが唯一共有しているものが、GCD☆GCDのインスタレーションであることも重要だ。そもそも「獸」はGCD☆GCD本人の記憶に根差したプロジェクトであり、今回の会場であるインスタレーションも、少年時代を過ごした多摩川の河川敷がモチーフとなっているという。いわば、鑑賞者たちはGCD☆GCDの私的な物語へと巻き込まれながら、それを自身の鑑賞体験という個別固有の思い出を通じて二重化していくこととなる。こうしたある種の「引き裂かれ」が同時多発的に重ねられることによって、今回の「獸」は描かれていく。
共有体験としてのインスタレーションについて、改めて確認しておこう。入口を過ぎると、シートで覆われた足場が細いトンネルのように鑑賞者を迎える。暗闇を数メートルほど進むと空間が広がり、壁面に映像が投影されているのが見える。そこでは、主人公の青年が河川敷で友人らしき人物の死体を目撃(幻視)し、黒い獣へと変じる一連が描かれる。これは「獸」シリーズ全体を通しても、ひとつのハイライトとなるようなシーンであろう。青くほの明るい水の中で、青年と死体はともに全身に泡を纏わせながら漂い、次の瞬間、黒い獣があらわれる。映像のディレクションを担当したTaroはこれについて、映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』のワンシーン──物語後半、貯水池で狙撃された女の死体が水底へと沈んでいくさまに、主人公が自身の思い出の象徴である『PLAYBOY』のカバーピンナップを幻視するシークエンス──から特に強いインスピレーションを受けたと語っていた★3。そういえば「獸」もまた、黒い獣が狩人に狙撃されるシーン(「獸(第0章/交叉時点)」)から始まったのであった。「『獸』というストーリーの最初は獸が狩人に撃たれるところから始まるんですけど、それは父に撃たれるっていうことでもあるんですね。父殺しじゃなくて、父に殺されたことは前提として、幽霊になってどっか行こう、みたいなこと考えてたんです」★4。死体とは幽霊の抜け殻であり、青年はそれを目にしたことで獣となる。それはすなわち、未来のある時点において狩人に撃たれる=幽霊になるという運命の獲得でもある。ここからは、この死体と幽霊の関係についてもう少し見ておこう。
「獸(第3章/EDGE)」の映像インスタレーション(監督:taro)[撮影:竹久直樹]
「獸(第3章/EDGE)」の映像インスタレーション(監督:taro)[撮影:Daiki Tajiri]
境界にあらわれる幽霊
死体が隠された郊外の河川敷で行き交う少年少女。こうした状況はすぐさま、岡崎京子『リバーズ・エッジ』(1994)を想起させるだろう。物語序盤、山田に河川敷の死体を見せられたハルナは「もしかしてもうあたしはすでに死んでてでもそれを知らずに生きてんのかなぁと思った」と独白する。『リバーズ・エッジ』に登場する少年少女は、生の実感を持つ機会を生まれながらに奪われている。それはすなわち幽霊的な生とでも言うべきものなのだが、彼ら・彼女らは自身の死体を見つけられないがゆえに、その実感すら持つことができない。だからこそ、河川敷に横たわる身元もわからないほどに損壊した死体は、彼ら・彼女らに「これはもしかしたら自分だったのかもしれない」という誤解をもたらしてくれるという意味において、希望なのだ。死体という死の根拠の存在を触媒に、はじめから失われていた少年少女らの生の根拠が仮想的に立ち上がる──まさしく幽霊のように。言い換えれば、幽霊が幽霊であることを自覚する──きちんと幽霊になる──ためには、死体と出会う必要がある。そのとき、死体が本当に自らのものであるかどうかは、関係のないことだ。
すなわち、水中で見つめ合う青年と死体は、本質的に交換可能なもの──どちらがどちらでもありえたものとして描かれることとなる。では、そこに挿入される第3項としての獣はどうか。水中で無数の泡の向こうに浮かぶ黒い獣のイメージに、私は映画『ゴジラ』(1954)において、オキシジェン・デストロイヤーの泡にまみれて悶えるゴジラの姿を重ねていた。人魚姫のごとく泡となって消えていくゴジラと対比されるように、黒い獣★5はその泡の中から誕生する。初代『ゴジラ』のラストは「ふたたび世界のどこかにゴジラがあらわれるのではないか」という憂いによって結ばれており、これ以降、「作中で一度は退けられたかに見えたゴジラが、ラストシーンにおいてなんらかのかたちで生存/復活していたことが示唆される」という展開は、シリーズものとしての「ゴジラ」を継続させるためのお約束となっていった。いわば、ゴジラは死にきれない中間的な存在となることで、延々と現代まで語り継がれてきたわけだ。それはいわずもがな幽霊的なあり方であり、先に述べた漫画の長期連載とも響き合うモチーフであろう。GCD☆GCDはこうも言っている。「卒業制作を完成させて終わりではなく、それが何かの予告編であるようにしたいと思ったんです。そうすれば、その後もずっと制作を続けられるのではないかと」。予告が続きをほのめかし、同時に続きの存在が過去を遡及的に予告として読み直すことを要求する。互いが互いにとっての予兆となるような関係性の緊張が、先の見通せない連載をかろうじて成立させる。連載とは本質的に幽霊性を帯びた行為なのだ。その意味において、「獸」の物語が幽霊の誕生から始められようとしていたことは必然だったと言えよう。
[撮影:竹久直樹]
トンネルを抜けると、視線を遮るほどの背の高いススキの群が目の前に広がる。枝分かれした小径を歩くにつれて河川敷の風景が開け、ちょろちょろと流れる小川と、それと並行するように築かれた土手が見える。虫取り網、三輪車、蠢くゴミ袋、雑誌、横たわった人体、野球ボール——河川敷のあちこちには作品とも小道具ともつかないオブジェクトたちが散在し、鑑賞者たちは思い思いの場所で、時として風景の一部に、時として目撃者になっている。自身の思い出の場所を再現すると同時に、そこをステージとして異化してしまうこと。これは即座に、Yeによる『Donda』(2021)および『Donda 2』(2022)のリスニングイベントを思い起こさせるだろう。Yeはここで、幼少期に母と過ごしたシカゴの実家を原寸大で会場に再現し、その屋根に巨大な十字架を掲げることでステージセットと成した。しかし、Yeのそれが家という私性の極みの肥大化(による反転)であったのに対し、GCD☆GCDは河川敷というまさしく境界的な空間を切り取っている点で興味深い。ステージと観客席、アーティストと鑑賞者は知らず知らずのうちに互いに入り混じり、散乱する。
千葉大二郎のパフォーマンス[撮影:吉屋亮]

横手太紀の作品[撮影:竹久直樹]
(後編へ)
★1──「同世代性の創出へ 『獸』とその先」『だえん2024』(だえん、2025)所収
★2──念の為、プロジェクト終了後に大規模な回顧展を行なう構想を本人が語っていることを付言しておく。参照=https://gendai-art.org/interviews/artists_gillochindoxgillochindae/
★3──ある飲み会での会話より。
★4──前掲書
★5──ひび割れたボンディング素材を思わせる皮膚の各所は、質感や長さもさまざまな毛の束で覆われ、こごっている──Gitiによるディレクションのもとで制作された黒い獣の姿を見た際、私がもうひとつ思い出したのは、2019年の『SWITCH』10月号のことだった。ここでは「SCIENCE FASHION」というキーワードのもとにスタイリストの北村道子が特集されており、SF小説からインスピレーションを得た北村ディレクションの写真が誌面を飾っていた。そのひとつに、レイ・ブラッドベリ「霧笛」をテーマとし、下田昌克のデザインによる「恐竜」のコスチュームをもちいたスタイリングがある。全身を覆う毛束とも鱗ともつかない突起。手足先の鋭い鉤爪。顔の上半分を隠すマスクとそこから垂れ下がった長い紐。黒く硬質な切りっぱなしのキャンバス地で仕立てられたそれは、衣服と造形の境界的な質感を湛えつつ、通常の恐竜のイメージから逸脱した怪獣としてあらわれている。この着想源となった小説「霧笛」では、毎年決まった時期に灯台を訪ねる恐竜が描かれる。ただ一匹、現代まで生き残ってしまった恐竜は、霧笛を響かせる灯台を自分の同族だと信じて、何百万年も続く自身の孤独を癒すためにそこを訪れる。そして、「霧笛」を原作とする映画『原子怪獣現わる』が、のちの『ゴジラ』に強い影響を及ぼしていることは一部ではよく知られた話だ。
鑑賞日:2025/11/08(土)