
会期:2026/01/29~2026/02/01
会場:スパイラルガーデン[東京都]
公式サイト:https://ac2026.ryutaaoki.jp
(前編より)
葦原中国に棲まう神の一柱としてタニグクがあり、これは一般にカエルの姿で描かれる。地を這いあらゆる場所に生息するカエルは、国土の隅々までを知りつくした者とみなされてきたわけだ。さらにカエルは中国では月に宿る生物とされ、広く民間信仰においてその鳴き声は雨を呼ぶとも言われてきた。鬱蒼と茂る葦原のどこかに、天球を這う月を鏡写しにしたかのごとく、そぼふる雨に打たれて鳴くカエルの姿が潜んでいると想像するとき、本作の風景はどのように読み換えうるだろうか。
田中純は、地上を這い続けるものとしてのタニグクの性質に着目し、同じく日本神話にあらわれる不具の神であるクエビコやヒルコへと接続している★7。田中はさらに、ヒルコの特徴を発生途中の胎児と結びつけ、その両生類的な相貌に「ヘッケルの反復説」さながらの生命史の重ね合わせを見る。発生に伴って、さまざまな生物のおもかげをうつろわせながら変容し続ける胎児の顔。中でも本稿において重要なのは、それが通常、両腕と胸の間に抱え込まれているために外からは観測することができないということだろう。言い換えれば、胎児の顔は隠されているがゆえに、あらゆる相貌をそこに重ね合わせた状態でまどろんでいる。《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》を、計算のたびに絶えず実行され続ける国生みとして捉えるとき、そこでは無数のヒルコが岸辺から葦船に乗せられて流れていく。それはまさに、葦原中国を満たす不可視のカエルたちの起源となるであろう。
会場風景[以下すべて、Photo by Kohei Yamamoto]
こうした神話的連想の一方で、カエルは生物学実験におけるモデル生物としてもよく知られてきた。中でも20世紀中盤のサイバネティクス研究は、カエルの網膜が持つ高度な処理能力(視覚入力に対するエッジ検出や動き検出機能)を明らかにしている★8 。いわば、感覚器官が脳の外部においてある種の知的な働きを行なっていることが指摘されたわけだ。これによってカエルの身体は、動き回るエサや天敵の挙動にいち早く反応することを可能とした。泥の中から世界を見上げるカエルの眼。これを上下反転させれば、本作の上部に設置されたカメラの眼が浮かび上がるだろう。このカメラもまた私たちの動きを捉え、それを環境へとフィードバックする視覚システムとして存在している。胎児=ヒルコ=カエルの隠された顔を見ることは、同時にカエルから見られることを意味する。見ることと見られること、それは世界とのつながりを思い出すことであり、その行為自体にはあらかじめ計算が内在していた。不可視のカエルとは、身体化、あるいは環境化されたものとしての計算行為の象徴にほかならないのだ。
《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》
ここで思い出されるのは、数学者・岡潔の存在である。故郷・和歌山県の山村で農耕に勤しみながら、多変数複素関数論において大きな業績をのこした岡は「数学者は百姓に近い」などの発言に象徴される、独自の数学的思考を築き上げていた。岡について述べた森田真生のテキストには、その片鱗が鮮やかに取り出されている。
自然は、人間やコンピュータによる「計算」とは違う方法で、しかもそれよりも遥かに効率的な方法で、同じ「結果」を導出してしまう場合がある。そもそも紙と鉛筆を使った「計算」も、紙や鉛筆の持つ物理的な性質に依存しているし、紙を使おうが、コンピュータを使おうが、計算というのは自然現象の振る舞いの安定性に支えられている。自然現象をある目的に沿って、部分的に切り出すことで計算は成り立っているのだ。そういう意味で自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している★9 。
これを森田は、岡が敬愛した俳人・松尾芭蕉のありかたへと接続する。
生きた自然の一片をとらえてそれをそのまま五・七・五の句形に結晶させるということに関して、芭蕉の存在そのもの以上に優れた「計算手続き」はない。水滴の正確な運動が、水を実際に流してみることによってしかわからないのと同じように、芭蕉の句は、芭蕉の境地において、芭蕉の生涯が生きられることによってのみ導出可能な何かである★10 。
ここで描かれているのは、ひとつのリザバーとしての人生であり、身体化された計算文化の存在にほかならない★11 。そして何より、芭蕉が詠んだカエルもまた、水音だけを通じて観測される不可視の存在であった。
ここまで、カエルというモチーフを軸に、本展の風景を異化してきた。こうした妄想的な読みの発散もまた、本作の計算資源であり、遊び心であるはずだろう。さて、青木のステートメントが「遊びと祝祭を失った技術は暴力化する」という一文から始まるように、遊びと祝祭というワードは、本展において繰り返し強調されている。洗練や合理化の名のもとに技術が痩せ細っていくことを防ぐには、ある種の冗長性の担保が重要となる。青木はそこに、遊びや祝祭の可能性を見ているのだろう。だがここで、青木が引くロジェ・カイヨワやジョルジュ・バタイユの論において、祝祭と暴力(の極点としての戦争)は背中合わせのものとして描かれていたことを思い出そう。祭りをはじめとする原始的な祝祭が抑圧・去勢された社会において、行き場をなくしたエネルギーの余剰は戦争のかたちをとって回帰する★12 。祝祭と暴力が本質的に同じものであるとき、私たちはいかにして技術の舵をとりうるのだろうか。
ここで「遊び」というキーワードを詳しく見てみよう。カイヨワはヨハン・ホイジンガによる遊びの文化研究を批判的に継承している。ホイジンガは、自由でありつつも秩序の遵守によって成立する行為として遊びを捉え、これがさまざまな文化と連続性を持っていることを指摘する。これに対しカイヨワは、秩序の遵守による洗練を伴う文化的な遊び(ルドゥス)のフレームからこぼれ落ちるものとして、より原初的で奔放な遊び(パイディア)の存在を指摘した。本展における遊びを見てみれば、それは所作の定まった極めてルドゥス的なものに軸足を置きつつも、その時々のリアルタイムな応答がもたらす即興性=パイディアによってゆらぎを与えられている、といえるだろう。
《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》
さて、ここにもうひとつの視点を導入してみたい。美学者の松永伸司は、ゲーム・スタディーズの研究者であるミゲル・シカールを取り上げ、シカールとホイジンガの遊び観をそれぞれ「ふざけた遊び」「まじめな遊び」として対比的に語った上で、そのフレームワークを広く文化一般へと敷衍してみせた★13 。シカールの「ふざけた遊び」とは、例えばデモの参加者を囲い込む機動隊の動きを、参加者たち自身がパロディしゲーム化してしまうことによって、ほんらいの意味を脱臼させるような事例を指している。すなわち、秩序を意図的に壊乱することが持つ創造性に焦点を当てた遊びである。「ふざけた遊び」は、先に述べたパイディアとも一線を画す。なぜなら、「ふざけた遊び」は既存の秩序からいかにその身を華麗に翻すかという洗練の試みであり、素朴な無秩序さではないからだ。それはいわば、型があるからこその型破りであり、ハックの概念にも近いところがあるだろう。祝祭であれ、暴力であれ、アートであれ、一定の秩序のもとに執り行なわれる行為は常に「ふざけられる」可能性を内包している。それを許容することは、技術を巡る合理性と遊びの緊張関係を担保する、メタ的な冗長性となりうるだろう。つまり、私たちは作品の上で執り行なわれる舞や茶席を横目に、葦の陰で勝手に踊ってみせたり、スパイラルの入口で野点を催すこともできたはずなのだ。
《オルタナティヴ・コンピューテーションズ》
最後に、量子とアートを取り巻く状況について個人的に思うのは、これら二者はその相性があまりにも良く、適切な距離を保ちづらいがゆえに、かえって取り扱いが難しくなっているのではないか、ということである。無意識のうちに一方が他方にとってのメタファーとして機能し、互いが互いの神秘性を補強しあうことで、量子とアートはともにトートロジーの中へと閉じ込められてしまう。量子力学の中に他の文化の片鱗を見出すこと、あるいは他の文化の中に量子性を見出すことは——本稿が無数の妄想的ネットワークの中に展示を宙吊りにしてみせたように——インスピレーションを得るという意味では効果的だろうが、メディウムスペシフィシティの追求の点では不十分と言えるかもしれない。
天体が空を巡り、葦が風にさざめき、人が畳を踏む——私たちは、それをただ見つめることもできるし、飛び込んで熱狂することもできる。横で勝手に踊ったり、茶を点てることもできる。公式の情報によればすでに展示は終了しているらしいが、それでも私たちは会場を訪れることができるし、それらすべてを忘れて全く別の場所へと出かけることもできる。なぜなら、青木が計算行為そのものを彫刻しようとしているのであれば、それは風が吹き、水が流れ、太陽と月が動き続ける限り、世界にあまねく存在しうるはずだからだ。地を這うカエルたちは世界の果てを知っていて、その風景を映した眼は今この瞬間も、誰にも知られることのない計算を続けている。私たちは今まさに、その足跡を辿り始めたところである。
★7──田中純「アハスウェルスの顔──都市の生命記憶へ」
★8──J. Y. Lettvin et al. “What the Frog’s Eye Tells the Frog’s Brain,” in Proceedings of the IRE, vol. 47, no. 11, pp. 1940-1951, Nov. 1959, doi: 10.1109/JRPROC.1959.287207.
★9──森田真生『数学する身体』(新潮文庫、2018、138頁)
★10──前掲書、140頁
★11──身体・環境を横断した系にもとづく創造の可能性は、土方巽から連なる暗黒舞踏の系譜も想起させる。暗黒舞踏についてのフィールドリサーチを行なったケイトリン・コーカー『暗黒舞踏の身体経験——アフェクトと生成の人類学』(京都大学学術出版会、2019)によれば、そこで目指されているのは振り付けによる身体表現ではなく、身体が世界とのつながりの中において「なること」(生成変化すること)そのものだとされる。
★12──無論、現代以降の戦争は過剰な最適化の果てにあり、もはや祝祭性を失っているとの見方もできるのだが。
★13──松永伸司「まじめな遊び、ふざけた遊び」(『広告』vol.417所収、株式会社博報堂、2023)
鑑賞日:2026/01/31(土)