発行日:2025/12/26
発行所:青土社
公式サイト:https://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=4094

「キャンセル・カルチャー」という言葉はすでに日本でも一定の認知を得ており、かつそれに当てはまるような出来事が実際にも起こっている。

最近の事例を紹介するならば、2020年に児童買春・児童ポルノ禁止法違反の容疑で逮捕、略式起訴された漫画家が、2022年に原作者として別名義でWebコミックサイト『マンガワン』で連載を始めていたことが今年2月に発覚した★1。版元の小学館は3月に謝罪を行なったが、一連の動きを受けこざき亜衣が『マンガワン』から全著作の引き上げを行ない、白石ユキは同媒体での更新を停止し、別媒体で連載を再開した。そしてその後何人もの漫画家が意志表示を行ない、一般ユーザーでも小学館作品の不買を表明するSNSの投稿が散見されるなど騒動が広がった。

このようにして過去の過ちや、当時は不問にされていた言動が掘り起こされ、当事者が社会的な制裁を受けることを「キャンセル・カルチャー」という。もちろんこうした動きはジェンダー平等や多文化主義の実現に好影響をもたらすものである。だがその一方で、キャンセル・カルチャーは2010年代のアメリカ合衆国の政治的分断を象徴するバズワードであり、2020年代を前後する頃から各国に輸入されるようになった。

すでに日本でも前嶋和弘『キャンセル・カルチャー アメリカ、貶めあう社会』(小学館、2022)のような紹介本が出版されている。ニュースレベルでこうした動向を把握する目的であれば、前嶋の著作の方がコストパフォーマンスは良いだろう。しかし、以下で取り上げるアドリアン・ダウプ『「キャンセル・カルチャー」パニック パニックを生み出す言説空間』(藤崎剛人訳、青土社、2025)は、キャンセル・カルチャーにまつわる言説分析および史料批判を通じ、メディアが社会に与えうる影響やその傾向について考察したものであり、その意味で通読する価値のある著作となっているだろう。

ただ必ずしも読みやすいタイプの文章ではないため──訳者の藤崎はドイツ出身のダウプの論理構成を「独文的」と評している──、先に大まかな見取り図を提示しておく。まず序章では、著者の問題意識が説明される。そして続く第1~5章までは、アメリカの現代史、政治思想史を踏まえながら、キャンセル・カルチャーへと連なる系譜がロナルド・レーガンの演説など多様な事例をもとに分析されていく。第6章ではパニックを引き寄せる言説が文体論として考察され、第7、8章ではヨーロッパを中心とした各国がアメリカからどのようにキャンセル・カルチャーを輸入したか報告され、終章へと向かっていく。

このような構成上、アメリカ国内の事象に対する言説分析に比重が置かれている第1~5章は、読者の関心に応じて後から読むこともひとつの読み方ではあるが、これらの章はキャンセル・カルチャーをアメリカ発祥のものとして現代史上に位置づける、同書の理論的背骨をなしている重要なパートである。

著者はキャンセル・カルチャーの、「語られ方」を分析する。同書で象徴的な節目として分析されるのが、1966年のロナルド・レーガンのカルフォルニア州知事選への出馬である。このときレーガンは共産主義やベトナムをはじめとする反戦スローガンに対する論陣を張るため、「急進的な学生たちに感じる本能的な嫌悪と内なる昂奮」★2を利用した。彼はカルフォルニア大学バークレー校が、共産主義者の温床であり性的乱交の拠点である旨の演説を、多くの想像的脚色をしたうえで行ない・・・・・・・・・・・・・・・・・、リベラリズムや若者への恐怖を利用することによって州知事に当選したのである。

このように真実よりも、「真実と感じられる」物語に人々は共感し、レーガンはリベラリズムとの文化戦争において優位に立つ。そしてこの分断を動員する言説は、その後の新保守主義者たちにも引き継がれていった。最終的にこうしたレトリックは、1990年代において中道寄りの出自を持つビル・クリントンの時代に、形を変えつつリベラル派にも浸透することになる。「ポリティカル・コレクトネス」をめぐる言説と絡み合いながら、右派左派を問わず広く政治的言語空間に「真実」の物語が拡散していく。そしてこの時代をもって著者は、「キャンセル・カルチャーをめぐる言語ゲームが爆発的な成功を収めるための土壌が形成された」と断言する★3。キャンセル・カルチャーはしばしばインターネットの普及と紐づけられるが、その根本はすでにネット以前に形作られていたものだったのだ。

そしてキャンセル・カルチャーは、アメリカを飛び出し世界に広がっていく。第7、8章でまとめられるヨーロッパ各国およびトルコの状況は、同書に欧米圏というより広い視座を与えている。ロシアのプーチン大統領は2021年の講演で、チャイコフスキーなどロシアの芸術家がキャンセルされているというキャンセル・カルチャー批判を行なった。また、トルコではドメスティックな言説としてすでに存在していた「リンチ・カルチャー」とキャンセル・カルチャーが結びつき、直接的な暴力を煽っていることが紹介される。

後編へ)


★1──「小学館、性加害の漫画家を連載起用 編集者は示談関与」(『日本経済新聞』)2026.02.27公開(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF27ABX0X20C26A2000000/
★2──アドリアン・ダウプ『「キャンセル・カルチャー」パニック パニックを生み出す言説空間』(藤崎剛人訳、青土社、2025)p.161
★3──同前、p.95

執筆日:2026/03/17(火)