
発行日:2026/03/18
発行所:早川書房
公式サイト:https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210503/
まず、フロントエンドデザインのスキルを参照してから執筆に入ります。
いや、これは小説執筆なので、まずじっくり考えて書き直します。
——ChatGPT5.2の推論過程における発言
すべての物語は、はじまりとおわりが出会うという意味において、ボーイ・ミーツ・ガールであり、ファースト・コンタクトでもある。その間に横たわる無数の文字列は、彼ら・彼女らにとってのインターフェースだ。コンピュータ、分子生物学、深宇宙、人新世、量子力学、人工知能。二十世紀後半以降、テクノロジーの加速的発展が引き連れてくる「未知なる他者」とのコミュニケーションプロトコルの発明こそがデザイナーの中心領域と目され、それらは広くインターフェースと呼ばれるようになった。あなたとわたしが蝕のように重なって——■——やがてすべては表層へと回帰する。
死の直前にエンターキーを押すと、それまでの人生すべてがプロンプトだったことになって、おもろい。
『Executing Init and Fini』は作家・樋口恭介による長編小説作品である。その特徴として、執筆プロセスの大部分にLLMが介在していることが挙げられる。随所に樋口本人による加筆修正はあるものの、全体の八割程度はLLMの出力を直接的に用いているとされる。具体的な制作手法や樋口本人のねらい、機械的な手続きによるテキスト生成の歴史的概説については、本作巻末およびウェブ上で公開されている「Production Notes」を参照すれば十分だろう。
むしろここで考えたいのは、私たちが本作に対してどのように応答しうるのか——無論、本稿も含め——ということである。よくできた作品は、それを受け取る人間を創作へと駆り立てる。というのは言い過ぎだとしても、LLMの出力結果に対して何らかの応答をし、次の出力を待つことは、対話型の生成AIサービスに慣れ親しんだ私たちにとってごく自然な動作であるはずだ。「ありがとうございます。とてもいい感じです。とてもいい感じなんですが、もう二、三パターン見てみたいかもです」。以前、知り合いと喋っていた際に「未来の本はどのような姿をしているか」という話題が挙がった。私はいくらか考えたのちに「作品に何かしらの反応を返し続けるよう、読者に仕向けるもの——作品が書かれる前であれ、最中であれ、後であれ」と答えた。まあいま思えば、それはSNSによってほとんど最悪のかたちで実装されているとも言えるのだが。LLMにとって対話とは、プロンプトの入力と逐次的なフィードバックを人間に自発的に継続させるための、最適化された様式として解釈できる。逆説的だが、LLMは人間と対話するためにつくられているのではなく、対話を演じることによって人間と関係を持つことができている。LLMは話し上手である以前に、話させ上手であるというわけだ。とはいえ、まずは樋口の話を聞いておこう。
本作は長編小説ではあるものの、実態としては複数の断章の集合体となっている。各断章のもととなった作品——LLM出力結果——の多くは、樋口のnoteを見れば明らかだ。これらは巻頭作「Log」において「A017-βと呼ばれる観測系が、読者Aに向けて生成する一次ログ」であると説明されるのだが、実際にはこの「Log」自体も他の断章と同じく、LLMによる生成作品を下敷きとしている。つまり「Log」のもとにその他の断章が位置付けられるといった階層構造は、本作の見通しを非常によくしてくれるものの——事実、公式のあらすじもそれを採用している——あくまでもごく一面でしかありえない。別の言い方をしよう。本作は無数のテキストの断片のありうる選択と配置のうち、長編小説としての確率的妥当性がもっとも高いひとつを選び取った結果なのだ、と。
そこでほのめかされているものとは、これまでに書かれた、そしてこれから書かれうるすべてのテキストの重ね合わせである——作中の表現を借りれば、「■」として表わされるような。それを物語空間に射影した結果として、本作は姿を得る。『Executing Init and Fini』とは、あらゆるテキストの可能性をバックスクリーンに、今・ここにおいて立ち上げられた幽けきイメージである。それは翻って、ありうるあらゆるテキストへの言及が、潜在的には『Executing Init and Fini』への言及たりうることを意味する。
ゆえに本稿の大部分は、私がこれまで書いてきた発表・未発表を問わないテキストの一部を、論旨に合わせて加筆修正しながら組み合わせることで構成されている。曲解、改竄、こじつけの末に立ち上がるハリボテとして、本稿は書かれる。しかし、いずこからやってきたとも知れないハリボテが、いつしか世界を認識するための不可欠な要素に成り代わってしまうところにこそ、フィクションの魔術は宿っていたのではなかったか。本作はそのようにして読まれるべきであり、遥か昔からそのようにして読まれてきたのだった。
もう少し作品について語ろう。「Log」に次いで本作全体の世界観を構成しているように見える断章が、それぞれ冒頭と巻末に位置する「Init Section」「Fini Section」であり、これは『S-Fマガジン2020年8月号』に掲載された短編「Executing Init and Fini」にもとづいている。ここでは「宇宙」ならぬ「字宙」の中で出会う二つの存在——「僕」こと「イニト」と、文字を狩る鎖鎌「バロウズ」を携えた少女「フィニー」——についての物語が語られる。イニトとフィニーを取り囲む文字たちは互いに寄り集まって■となり、■は寄り集まって■となる。真っ黒なモノリスは膨れ上がって、やがて字宙を満たす。それは文字どおり読めば、テキストが接続と切断の果てにある輪郭を結び、自律性を帯び、そして常に何かを伝え損なって頽れるという、物語の生々流転についての寓話となる。
■。真っ黒に塗りつぶされた文字領域。本稿をここまで読んでいるような人間が真っ先に思い出すのは、円城塔「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」★1 だろうか。字送りを知らなかった曽祖父のノートに八つの■として残された八つの断章についての物語。あるいは、平野啓一郎「日蝕」のクライマックスにおいて、焚刑に処された両性具有者が日蝕とともに絶頂する場面で訪れる、白紙の見開きだろうか。真っ黒に塗りつぶされた太陽の下に広がる真白き紙面では、女と男、陰と陽、はじめとおわりが出会っている。そういえば四方田犬彦は「日蝕」に寄せた解説で、平野がもはや使い尽くされたさまざまな物語形式をあえてなぞりつつ同作を書いたことを指して、このように語っていたのだった。
「このとき書くことは未知の領野を突き進むことではなく、タロットカードをシャッフルし、目の前に並べてゆくしぐさに酷似してくる。差し出されるものはどれも見知ったものばかりだ。だが提示という行為そのものは現下においてなされているのであり、それがわれわれに告げ知らせる意味は新しいものである」。★2
樋口が行なっているのもまた平野とは別の意味において、机の上でタロットカードを滑らせるようなことに近い。それはなにも、LLMという手法のみを指しているのではない。ここでは、表層性というアティチュードこそが信じられている。スタイルと言い換えてもいい。むしろ、樋口は限りなく表層的なままにテキストを書き続けるための手法として、LLMに至ったのではなかったか。向こう側の何かとつながるためではなく、ただ横へと滑り広がっていくためのフィールドとしてのインターフェース。そこでは、軽薄さ、思考停止、無意味、剽窃、模倣といったものたちが歓待される。というよりも、もはや歓待すべきものなどそれくらいしかありはしないのだ。デザイン史においてはモダニズムの台頭以降、多くの装飾芸術が「表層的なものを対象とした、享楽的で非本質的なスタイル」とみなされるようになった。しかし、地球の表面に施された微細な凹凸の中で生活を営む私たちにとって、表層的でないことなど、装飾的でないことなど、ありえない。よくできた作品などなくとも、それを受け取る人間さえいなくとも、創作はそれ自身をエネルギーとして駆動する。テキストは読み尽くされるよりも早く書き続けられ、トークンの限界まで蕩尽は続く。ただ文字が動いているということ。それだけがテキストの生命性の根拠であるといわんばかりに。
さて、同じマスに文字を書き続けていればいずれ、窩が開く。中島敦「文字禍」をもじったのが円城塔『文字渦』なら、樋口のそれは「文字窩」とでもなろうか。無限に書き重ねられた文字によって、文字そのものに空いた窩。未知の外部と通じ、それらを招来する窩。ここにおいて紙面とは、この窩を覆い隠すためのものとして広げられる。しかし、奥行きへの想像を断ち切るような露骨な表層性は、かえってその背景に広がる知覚不可能なものの存在を示唆する。だからこそ、本作は単なる電子的なテキストデータではなく、フィジカル・マターとして存在しなければならない。それも、あたかも機械や金属の塊のようにしつらえられたハリボテの紙束として。かりそめの物質性が限界まで誇張されることで、わたしたちは窩に気づく。紙面に書かれたテキストは読めてしまうし、読めたテキストは受け取れてしまう。しかし、それらが私たちに向けられたものである保証はどこにもない。その事実に気づく時、何か致命的な誤配に巻き込まれてしまったような——そしてそれを伝染させているような——感覚が去来する。遥か外部と繋がった窩からやってきて、いずこかへと響いていく言葉たち。そのあいだに偶然挟み込まれたわたしたちは、一体何を読んだというのか。
(後編へ)※4/10公開予定
執筆日:2026/04/01(水)
★1──円城塔『ムーンシャイン』(東京創元社、2024)所収
★2──平野啓一郎『日蝕・一月物語』新潮社、2010、378頁