1997年のドクメンタで、アーティスティック・ディレクターの任に当たったC・ダヴィッドの提示した概念で、ここでのクリティカルには「批評」と「危機」の二重の含意がある。ヨーロッパの大規模な国際展としてつねにヴェネツィア・ビエンナーレと比較され、ポピュラリティの点では後塵を拝している感のあるドクメンタだが、たまたま開催時期が一致した今回は、ドクメンタへと軍配を上げる声が多かった。戦後の現代美術を広く俯瞰しようとする「レトロ・パースペクティヴ」と、それを世界的視野で見渡そうとする「グローバリゼーション」という、ダヴィッドが掲げた二つのテーマおよびそれに並行した作家選択と展示が、より高い評価を獲得したからである。クリティカル・アートとは、この二つのテーマの接点で、1990年代の現代美術を表象すべく考えられた概念なのだが、しかし本来クリティカルであるはずのアートに、敢えてクリティカルと冠してその根拠を二重に保証する戦略は、その名のままに現代美術の危機を投影していると言えよう。多くの造形表現がPC的な価値観へと回収されてしまう現在、「芸術の自律性」は紛れもなく疑われているのだし、それは美術を語る言語の危機にも直結しているからだ。事実ダヴィッドも、F・ジェイムソンやD・ハーヴェイなど、参照すべき言説を美術の外部に求めざるをえない現実を「クリティカル・アート」の出発点に据えていたのである。
(暮沢剛巳)
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