クリスト&ジャンヌ・クロードのプロジェクトにおいて重要なことのひとつは、作品がテンポラリーにしか存在しないことを前提につくられるという点である。彼らは、作品を完成させると2〜3週間そのままの状態で人々に公開し、会期が終われば撤去して作品は消滅する。したがって作品は短い公開期間のあいだしか存在しないことになり、「作品」がすなわち「展覧会」ということになる。
それに対して、たとえばマイケル・ハイザーやロバート・スミッソンらのアースワークは、作品が完成すればそのまま放置されることが多いし、ウォルター・デ・マリアの「ライトニング・フィールド」やジェームズ・タレルの「ローデン・クレーター」の場合であれば、いわゆるパブリックアートと同様メインテナンスしながら半永久的に残される。また、最初からテンポラリーな展示を前提にした野外彫刻展のような場合でも、出品作品の多くは基本的にアトリエでつくられ、会期が終われば別の場所に移された。つまり作品そのものは残り、使いまわしが可能ということだ。少なくともクリスト&ジャンヌ・クロード以前には、「作品=展覧会」という様態はきわめて珍しいものだった。
しかしその後、インスタレーションや野外彫刻展の隆盛とあいまって、こうした「作品=展覧会」は増えていく。とりわけ80年代なかばから急増するのが、クリスト&ジャンヌ・クロードのような「個展」ではなく、たくさんのアーティストが参加する「グループ展」だ。その嚆矢となったのが、1986年ベルギーのゲントで開催された「シャンブル・ダミ」と、その翌年ドイツのミュンスターでおこなわれた「彫刻プロジェクト」である。
「シャンブル・ダミ」展は市内に点在する約50軒の民家に、ブルース・ノーマン、ジョセフ・コスース、ルチアーノ・ファブロといった50人のアーティストが作品を設置するという展覧会。観客は地図を片手に1軒1軒たずね歩くオリエンテーリング形式を採る。民家の住人は期間中、プライベートな空間に侵入してきたアートとともに生活し、見ず知らずの訪問客を迎え入れるため、「シャンブル・ダミ」(友達の部屋)と名づけられたという。ただし、四六時中公開しているわけにもいかないので、ある地域の民家は月水金、別の地域は火木土というふうに1日おきに公開日を分けたそうだ。これを企画したのはゲント現代美術館の館長、ヤン・フート。彼はこの展覧会で一躍その名を世界に知らしめたといわれている。
この展覧会を取材した写真家の安斎重男氏は興味深いエピソードを紹介している。同展のために自宅を提供しようとした住人の反応についてだ。
「ほとんどの人は、絵といえばキャンヴァスで額縁に入ったもの、彫刻といえば台座の上に乗っかっているもので生活空間を装飾するものと考えているから、気がきいたものだったらうちもやってもらおう、という感じで参加した人など最初百人ぐらい集まったらしい。そこでヤン・フートがどういう性質の美術が来るのか説明するわけです。するとどんどん減っていくわけ(笑)。たとえば壁に直接絵を描くかもしれないし、変なものを持ち込むかもしれないし、ということで、最終的には、こういうものに対してある程度認識のある職業の人、医者とか教育者とか、アーティスト、たとえば音楽家たちが協力してくれたらしい」(安斎重男+篠田達美対談集『現代美術トーク』より)
ここで語られていることは、住人の多くは民家で展覧会をおこなうといわれたとき、どこかから絵や彫刻をもってきて展示するだけだと思ったら、アーティスト自身が家に来てその場ならではのオリジナルな作品をつくるという、そのようなアートのあり方に驚いたということだ。もちろん例外もあったらしいが、個々の作品は基本的にそれぞれの家のためにつくられたその場限りのものだから、これは「作品=展覧会」であることを意味する。さらにいえば、総体としての「シャンブル・ダミ」自体がひとつの大きな「作品」だったということになる。だとすれば、この展覧会はキュレーターであるヤン・フートの作品だといってもいいのではないだろうか。
「シャンブル・ダミ」展の開かれた翌年、1987年に、ドイツのミュンスターでは「彫刻プロジェクト」がおこなわれた。こちらは室内ではなく、屋外空間に約60 人のアーティストが作品を設置する試み。これもやはり、市の中心部にある州立美術館で地図をもらって、街を散策しながら作品を探し歩くという趣向だ。企画したのは、やはり世界的に著名なドイツ人キュレーター、カスパー・ケーニヒ。
参加したアーティストは、城館の前庭に2枚の湾曲したコールテン鋼を向かい合わせに立てたリチャード・セラ、石づくりの監獄跡にハンマーが壁をたたく装置を仕掛けたレベッカ・ホルン、赤、青、黄色のストライプの入った3つのゲートを3ヶ所に設置したダニエル・ビュレン、棺おけのような石のベンチを公園に置いたジェニー・ホルツァーら。いずれもこの街のもつ地理的、歴史的特性を読み解き作品に反映させた、ミュンスターならではの作品といえる。これら作品を通して、あるいは作品を探しながら街を回遊することによって、ミュンスター市の歴史や文化を知ってもらおうとのねらいもある。
実はこのプロジェクト、このときが初めてではない。1977年に第1回展が開かれ、以来10年に1度という長いスパンで続けられているのだ。ただし、第1回展には10人たらずしか参加しなかったためほとんど話題にならなかったが。
また、出品作品の多くは約3ヶ月の会期が終われば撤去される(それらの作品は展覧会と運命をともにするわけだから「作品=展覧会」といえる)が、おもしろいことに一部の作品はそのままパーマネントに展示されることになっている。前述の作品でいえば、セラの彫刻は撤去され、ホルンのインスタレーションはいったん撤去されたものの、1997年の「彫刻プロジェクト」に合わせて再設置され、ビュレンのゲートとホルツァーのベンチは一部がそのまま残された。こうしてパーマネントな作品は10年ごとに着実に増えていき、パブリックアートと同じく、つねに市民の目にさらされることになる。
もともとミュンスターは市制1200年以上の歴史を誇る古都だが、第2次大戦で市街地の90パーセントが壊滅。戦後復興に当たって、住人はモダンな都市づくりを進めるか歴史的街並を再現するか選択を迫られ、後者を選んだという保守的な土地柄だ。そのため、いきなり街なかに大量の現代美術を置けば住人の反発が予想されるので、少しずつゆっくりとなじませていかなければならず、このように長い間隔を空けての開催と、作品の一部を残す方式を採ったのだという。したがってこの「彫刻プロジェクト」は、単なる展覧会の名称ではなく、ミュンスター市に徐々に彫刻を浸透させていく長期的な計画とそのプロセス全体を指しているのだ。「彫刻展」ではなく「彫刻プロジェクト」と呼ぶゆえんである。
80年代後半にヨーロッパで開かれたこのふたつの展覧会は、すぐに日本に情報として伝わり、それに感化されたとおぼしき野外美術展や脱美術館的プロジェクトが各地で繰り広げられるようになる。もちろんそれ以前から宇部・須磨に代表されるような野外彫刻展はあったが(これについては次項で触れたい)、そこでの作品の大半はその場所との関連が薄く、アトリエで制作された彫刻をもってきて設置しただけのものにすぎなかった。だからこそ、1968年に須磨の土を掘り返した関根伸夫の「位相−大地」は衝撃的だったのだ。
とはいえ、日本ではアースワークを発想するほど土地が広くないうえ、マーケットも未熟だったせいか、テンポラリーなインスタレーションによる野外展が比較的早い時期からおこなわれていたことも事実である。たとえば、1980年に始まる浜松の砂丘を舞台にした「浜松野外美術展」、1984年から10年間、岡山県牛窓町の田園や海岸や広場でおこなわれた「牛窓国際芸術祭」、同じく1984年から栃木県の大谷石採掘場跡の巨大空間で続けられた「大谷地下美術展」などがそれだ。これらはいうまでもなく、「シャンブル・ダミ」や「彫刻プロジェクト」以前に独自の意図と目的をもって始められたものである(もっとも「牛窓国際芸術祭」を除けば無人空間を会場にしており、脱美術館の意義は半減している)。
しかし80年代後半以降の急増ぶりはただごとではない。たとえば1987年に限っても、長野県小布施町の古い街並を使った「小布施系」をはじめ、横浜市の大倉山記念館の周辺でおこなわれた「大倉山アート・ムーヴ」、製鉄の街として知られる北九州市八幡の鉄を使った「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」、群馬県渋川市の公園で開かれた「渋川現代彫刻トリエンナーレ」、東京都内の取り壊される民家を作品化した「絶対現場」などがあるし、1988年には、山口県岩国市の錦帯橋周辺の河川敷を舞台にした「環境アートプロジェクト」、山梨県白州町の田園や林に作品を点在させた「白州アートキャンプ」、神奈川県藤野町の自然のなかでおこなわれた「野外環境彫刻展」、東京の両国駅構内にインスタレーションした「駅舎VISION」などが開かれた。全国各地、まさに野外美術展の花盛りである。
なぜこれほど隆盛をきわめたのか。「シャンブル・ダミ」や「彫刻プロジェクト」などの海外の動向がひとつのヒントになったのは間違いないが(実際、これらの多くは地図を見ながら作品を探し歩くオリエンテーリング形式を採っていた)、もちろんそれだけではない。
80年代後半といえばバブル景気の真っただなか。カネ余りの企業は文化イベントにも乗り出すようになり、それが組織化されて1990年には企業メセナ協議会が発足する。加えて、当時の竹下首相が「ふるさと創生基金」として全国にカネをばらまくなど、地方の活性化が叫ばれていたころ。各自治体も文化をキーワードに街おこし村おこしに躍起になっていた時代だ。といっても、企業や自治体が美術に割く予算はごく限られているし、ましてやこのような脱美術館的イベントに拠出される援助金などほんのわずか(皮肉なことに、美術関連の予算の大半は美術館建設やコレクションの購入に当てられた)。それでもこうした野外美術展にいくばくかのカネが流れ込んだのは事実である。
こうした時代背景もさることながら、80年代の前半と後半ではもうひとつ小さな変化が野外美術展に起こったように思う。それは場所に関してだ。「浜松野外美術展」と「大谷地下美術展」は無人空間を舞台にしたと述べたが、80年代後半の野外美術展の多くは、公園や廃屋や田園など人の気配がするところでおこなわれたということ。これが偶然でないことは、続く90年代を見ていけばうなずけるはずだ。
[主要参考文献]
・ヤン・ブラート「世界の哀しき心」、『アートはまだ始まったばかりだ』池田裕行訳 イッシプレス
・安斎重男+篠田達美対談集『現代美術トーク』美術出版社
・『SCULPTURE PROJECTS IN MUNSTER 1997』Westfalisches Landesmuseum
・くまもとアートポリス92実行委員会『12のアーバン・デザイン』INAX
・『美術手帖』1992年11月号(特集:野外アートの饗宴)、美術出版社
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