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「矢萩喜従郎:視触、視弾、そして眼差しの記憶」展
木戸英行[CCGA現代グラフィックアートセンター] |
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6月8日からCCGA現代グラフィックアートセンターで開催する「矢萩喜従郎:視触、視弾、そして眼差しの記憶」展を紹介したい。 こういう言い方を本人は必ずしも望まないだろうが、矢萩の本業はグラフィックデザインである。グラフィックデザインに関心のある人なら、無論、周知の作家だろうし、美術関係者にも、さまざまな美術館のロゴ・マークやポスターを手がけている作家としてよく知られた存在だ。「グラフィックデザインのことはあまり知らない」という人でも、美術展や美術館に日頃から親しんでいる人なら、知らず識らずのうちに彼の仕事を目にしていることだろう。 グラフィックデザイナーとしての経歴ははなばなしい。ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ特別賞(1980年)、同金賞(1990年)、原弘賞(1988年)、勝見勝賞(1999年)と受賞歴も華やかだ。1990年のヴェネチア・ビエンナーレ展日本館や、1991年にロンドンで開催された「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展のカタログ・デザインは海外でも絶賛を博した。 しかし、矢萩が自らの活動をグラフィックデザインに限らず、写真、建築、評論、そして美術と、幅広く展開していることとなると、現時点では意外に知られていないかもしれない。本展は、そんな彼の美術の仕事に焦点を当てた展覧会だ。彼自身にとっても美術作品による個展としては初めての機会となる。 それにしても、矢萩のマルチタレントぶり(この言い方を彼はもっと好まない)には驚くほかない。しかも、それらは、器用に何でもこなすというのではなく、どれが主でどれが従か本人にもにわかには答えられないほど、本格的に取り組まれている。 もっとも、展覧会企画者としてのぼくは、矢萩のこうした活動領域の広さを、それらが「本格的に取り組まれてきた」という点によって評価しているのではない。とくに建築の仕事などは、それを評価する基準なり能力なりがぼく自身に決定的に欠けているのだから、作品個々の意味や質についての判断を留保せざるを得ない。それでもなお、矢萩の仕事が総体としてぼくを惹きつけてやまないのは、彼の創作活動全体を貫通する独特の哲学が、じつにスリリングだからにほかならない。 その哲学とは「中心はひとつではなく、中心は点在する」という多中心の思考と、それと表裏をなす「この世に完全に静止した視点というものは存在しない」という認識だ。 もともと視覚芸術の一分野であるグラフィックデザインから出発した矢萩は、視ることと視られることの本質をつかむために、「眼振」や「盲点」といった生理的レベルから、世阿弥の言う「離見の見」をめぐっての考察など、形而上学的なレベルにいたるまで、さまざまな思索を積み重ねてきた。数年前に矢萩が書いた「眼振」についてのテキストを読んだときの知的興奮は、今でも鮮明に残っている。人間は生理的に一点を凝視しつづけることができない。同じ画像を長時間見つづけると網膜に文字通り映像が焼き付いてしまうからだ。そのため、一点を凝視しているつもりでも眼球は微細な振動を繰り返し、つねに網膜に新しい映像を供給しつづけている……。そこにはだいたいこのようなことが書かれていたが、矢萩の創作活動はまさにこれを体現していた。多中心の思考と動きの中の視点という認識は、矢萩が思索の中から生みだした彼の創作活動の核となる哲学であり、この哲学を足がかりにして、彼は確信犯的に自らの領域をグラフィックデザインから多面的に広げてきた。 本展は、矢萩喜従郎に、美術という新たな一面を加えるべく企画された。サブタイトルにある「視触、視弾」は矢萩の造語だ。この造語が示すように、展覧会には、矢萩が近年暖めてきた視覚にまつわるいくつかの新しい概念が平面および立体の新作をとおして提示される。「視る」という行為や体験が本質的に内包していると矢萩が考えるこれらの概念は、多中心の思考と動きの中の視点をさらに発展させて生みだされたものだ。そして、この展覧会を機に、今後の矢萩のグラフィックデザイン、写真、建築、評論といったすべての仕事にスリリングに展開されていくことだろう。
[きど ひでゆき] |
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