|
畠山直哉展・小山穂太郎展展
木戸英行[CCGA現代グラフィックアートセンター] |
|||||||||||
|
写真・映像が現代美術の一ジャンルとして認識されるようになって久しいし、現在ではもはや主流とさえいえるほどなので、この種の展覧会自体は驚くほどのことではない。しかし、あくまでぼくだけの感想かもしれないが、これまでの美術と写真の関係をめぐる状況には、作家の側にも、それを取り巻く美術館側にも、いつもどこか消化不良の感がぬぐえなかった。それだけに、畠山や小山のような"本格的"な作家の仕事を美術館の広いギャラリーで概観できる今回のような機会にはいやがうえにも期待が高まる。とくに小山展を企画した栃木県立美術館は、1987年の「現代美術になった写真」展以来10年以上にわたって、美術における写真表現の動向を注視しつづけてきた実績のある美術館だ(小山穂太郎もこの展覧会に含まれていた)。 畠山と小山を"本格的"と評したことには、正直にいって、私的な思い入れ以外にあまり根拠がない。だけど、もともと「アサヒカメラ」「写真装置」「deja-vu」など写真雑誌の熱心な愛読者で、写真が大好きだったぼくには、この二人こそが、今日、写真と美術の幸せな融合を体現する最右翼の作家だという妙な確信があるのだ。もっとも、当の二人は、写真であれ美術であれ、既存の狭量なテリトリー意識から距離を置こうという姿勢を見せても、二つを融合しようなどという志向とか戦略はまったくないだろう。逆に言えば、そこがぼくが彼らの仕事に注目する理由の一つなのだが。 畠山と小山はいずれも、いわゆる写真界からあらわれた作家ではなく、むしろ美術プロパーの出自をもつ。とはいえ、両者の写真に対するアプローチは、畠山が、ジョエル・スタンフェルド、ルイス・ボルツといった、ニューカラー・フォト系の精細かつストレートな大判カラー写真の作品を作るのに対して、小山は、フィルムや印画紙にサンドペーパーで傷をつけたり、バーナーで焼いたり、漂泊したりときわめて絵画的かつ表現主義的な作風、という具合に好対照だ。 畠山にとって写真は、われわれが住むこの世界をより深く知るための、とても客観的な一種のフィルターであって、個人的な記憶や感情とは関係がない。じっさい、国内の石灰岩の採掘現場を取材した初期の代表作「ライム・ワークス」シリーズに写された被写体は、見る者に「身近にこんな光景があるのか」という驚きこそ与えるけれど、だからといって、スペクタクル性とも無縁だし、逆に私的な記憶や既視感を喚起するようなことは一切なく、あくまでクールだ。 一方、小山の写真では、印画紙や映像といった、写真の視覚的・物質的構成要素が、そのまま平面芸術としての絵画を構築する独自の素材と位置づけられている。廃虚、洞窟、水面といった、深い奥行き感をもつ、ある意味できわめてフォトジェニックな風景と、傷つけられ、焼かれ、脱色されることで、執拗に物質性を強調された印画紙との出会いは、ちょうどアメリカ抽象表現主義の大画面にも似た崇高性を帯びつつも、見る者の意識下に記憶の淀みに堆積する、危険な重金属といった独特の強さをもっている。 こんなふうにアプローチは正反対でも、両者に共通するのは、写真(映像)を扱うということに対して、愚直なまでに真正直であることだと思う。彼らの仕事には、ファッション性、文学性、政治性、戦略性がまったくと言ってよいほど感じられない。つまり、これ以上はないくらい具体的であらゆる観念から自由であるという意味だ。これは、この二人が、最近注目されている写真を扱う他のアーティストたちとは一線を画していることのように思えるのだ。 と、まだ見ていない展覧会についてまるで見てきたように、しかも、やや興奮気味に書いてしまった。ふたを開けたら「なんだ、おまえの言っていること、全然的外れじゃん」なんて結果にもなりかねないので、このへんで止めておくけど、いずれにせよ、この夏一番期待したい展覧会だ。
[きど ひでゆき] |
|
|||
|
|||
|