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-さわれる原風景を探す-風倉匠展/
mono-dharma,electronic 小杉武久/Mixed Messages-漂/ Mixed Messages 2002-Fuji/江上計太展「ユートピアン・メランコリア」 川浪千鶴[福岡県立美術館] |
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隔年でミュージアム・シティ・プロジェクトhttp://www.ne.jp/asahi/mcp/fukuoka/が開催されるこの時期の福岡は、現代アート月間といった感がある。(と、以前にも書いたような気がする)前もって会期をあわせたわけではないのに、この時期に現代美術の展覧会やイベントが集中し盛り上がるのも、長年のミュージアム・シティ・プロジェクトの成果/効果といえるかもしれない。(このフレーズも2年前に書いた気がする) ということで、この秋のおすすめとして、大分と福岡のベテラン作家のしたたかさと軽やかさを堪能できる展覧会をご紹介したい。 まずは、1936年大分市生れで湯布院在住のパフォーマー風倉匠。美術館での初の個展は、中央アジアや南西アジアとのつながりすら感じさせる彼の風貌にも似た奥深さと、いつも卑猥な絵描き歌を口ずさみながら落書き付のサインをしてくれる彼の茶目っ気が、うまくブレンドされていて素直に楽しめた。大きくふたつに分けられた展示室は、どちらも薄暗がり。最初の部屋では、薄暗がりのなか、片方の壁では焼け跡の設定でつくられた風景を覗き穴から眺めることができ、もう片方の壁では点在するピンホールカメラのぼやけた映像を通じて美術館の外の風景に触れることができる。第二室では、壁に枡状の青い箱にオブジェを仕込んだ作品が108個横一列取り付けられ、手渡されたペンライトの灯りを作品に近づけたり振り回したりして、壁づたいに自分勝手に鑑賞する。どちらも、見ることを見、見ることに触れ、見ることを遊び…など、見ることの殿堂であるホワイトキューブを、地道かつ大胆に叩いて壊していくような、ダダイスティクな精神が小気味いい。等身大だからこそ無限大でもある風倉の輪郭をなぞっている気がした。なるほど、風倉自身が一番のアートということか。 この風倉展にあわせて、風倉とジョイント・パフォーマンスを行うために駆けつけた小杉武久が福岡で開催しているサウンド・インスタレーションも、聞くことをゆるやかに解体してくれて心地よい。それにしても、このおふたり、年をめされるほどにいい顔になっていく。これもすごいことだ。 ついで、いまや全国的にも珍しい現代美術の集団「Mixed Messages」の展覧会。中心作家の村上勝は、1947年福岡県行橋市生れで福岡市在住。村上以外の主なメンバーも40代から50代で、一世代下ではあるがポスト九州派の作家達といえる。91年に「個の解体と再構成」を掲げて集団活動を開始し10年が経つ。ときにはむちゃな肉体労働を自らに課したり、廃倉庫や島など発表場所を次々に替えていくなど、マンネリ化しがちな集団の意義を維持、活性化し続けた軌跡は、生真面目な分だけ特異でもある。 「ART TOURS PROJECT」と称された今年の活動も、春のグループ展に始まり、クアラルンプル郊外の炎天下のジャングルでマレーシアの作家たちと一緒に現地制作した「The Langat-Noko Art Program」(7月21日〜10月21日)、北九州市の画廊リブで行われた5週連続の個展「SOLO 5」(8月29日〜10月1日)、そして福岡県立美術館とアートスペース貘で同時期に開催しているグループ展とすでに5回を数える。こうした怒涛のようなスケジュール闘争をこなしつつ、「再構成」後の新たな転換がいま模索されている。個々の作品をラップで一体化させるといった、初めての合作を行った福岡県立美術館の展示を見れば、共同制作すればするほど際立つ「個」に重点が置かれていることはわかるが、そのねらいの分だけ、作品は巨大でも抑制的でおとなしく思われた。しかし、10月5日に展示空間で行われたパフォーマンス、最も若いメンバーはやし史の、メンバーすべての作品を自分の血でつないでいくような渾身の行為に、改めて集団の力や可能性を感じさせられたのも事実だ。 1930年代、40年代生れの作家ときたので、最後は50年代の作家の紹介でしめたい。江上計太は1951年福岡県大牟田市生れで福岡市在住、福岡の現代美術シーンで最も重要な位置をしめる作家のひとりである。風倉と同じく美術館での初個展は、「ユートピア」という、近年江上が取り組んでいるテーマに基づいた新作インスタレーションで、作家の新しい展開を見ることができる好企画である。江上といえば、抽象構成的な手法で色彩と幾何学形態を空間に構築していく「サイケデリック・バロキズム」シリーズなど、ソリッドな作品が思い浮かぶ。が、デューラーのみならず自作のパロディをも含んだ、チープで、おもちゃ箱のような今回の作品「ユートピアン・メランコリア」は、ある一定のリズムを感じさせながらも積極的な「ゆらぎ」に満ちていることが印象的だった。ユートピアについて、それは「具体的な作品がもたらし得る(かもしれない)最高の効果」であり、それによって「作り手、見る者の区別を問わず、人々を深い幸福感で満たすこと」が期待されていると、江上は語っている。というと、いわゆる「交流」が目的のように勘違いされるかもしれないが、ユートピアや交流は「予測不能の偶然の賜物」として届くものであり、その賜物の「到来のチャンスをいち早くキャッチする感覚を磨き、またその到来を待機するに相応しい場所を探すことこそ、芸術にたずさわる者の日々の仕事」だと彼は続けている。本気度の高い作家の存在は、なにものにもかえがたい。 ●学芸員レポート 10月12日、熊本市現代美術館の開館初日に開館記念の第一弾「ATTITUDE2002」展を見に行った。熊本市のメインストリートに面した美術館のロケーションは便利このうえない。入ると、ジェイムズ・タレルの空やマリーナ・アブラモヴィッチの書架内読書スペースなどがある図書室(ホームギャラリー)がすぐ目に入る。そのおしゃれな雰囲気や居心地のよさは、たとえばデートの待ち合わせなどに今後絶対使われると予想され、ホームという概念で自由なアート・アクセスと、こんなに贅沢でいて気楽な空間をつくりだした美術館の姿勢や取り組みに感心させられた。 がその一方で、開館記念展の「心の中の、たったひとつの真実のために」というメッセージには、最後までなじめなかった。表現者ひとりひとりの態度が、「国も地域も世代も越えて、人間の中の、たったひとつの真実」に近づき、それが「ここに姿を現す」って、本当〜なの?といいたい感じ。こうなると、真実の場所=美術館=ホームといった一連のイメージが、例えばみんなを引き入れる大きな傘のように思えてしまう。私にとってホームは、ひとり(個人)からさまざまなひとり(他者)へのつながりや広がりのイメージではあっても、決してひとつの中心への集約にはつながらないのだが、みなさんはいかがですか? [かわなみ ちづる] |
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