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やなぎみわ展「My Grandmothers」
木ノ下智恵子[神戸アートビレッジセンター] |
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いつの頃からだろうか、人が「もうこの歳になって」と自分の誕生パーティーを心待ちにして祝わなくなったのは…。幼い頃、丸いケーキに灯されたロウソクを一気に吹き消すことがちょっとした喜びと自慢であっただろう。 私事だが三十路突入の記念に我が家に人を招待して、自ら先導して夜通し誕生日を祝ったことがある。この話を人にすると少し驚かれたり、笑われたり、あまりノーマルな出来事ではないかのような反応が多いが、今ココから次に向かおうとしている自分に活力という贈り物をあげることはとてもナチュラルな行為だと思っている。 生き物はすべて死に向かう。生殖期を過ぎた頃から細胞・組織・器官のレベルで多様な変化が起こる。身体だけではなく、大切なパートナー、周囲からの尊敬、愛情、能力評価、自尊心・自信などの自己効能力といった、壮年期までに獲得した多くの対象を老年期の到来と共に喪失する。その代わりに、老いることへの不安や恐怖、悲哀・虚無感・絶望感・運命論的傾向が頭をもたげてくる。一方、若さは美徳であるという信仰は、肉体的な衰えを覆い隠そうとする美容整形など様々な市場経済の餌食となっている。生物の個体が時間の経過に伴って生理的機能などが次第に低下していくことを老化というが、その定義は人によって異なり、加齢と同義に使われることもあるらしい。実学を大事にするアメリカでは、加齢学(老年学)gerontologyなる高齢化に関する学問が発達し、医学だけではなく福祉・心理学・社会学・法学などあらゆる側面に及んだ検証が成されているという。年輪を重ねることで高価になる杉の木や年代物であることが評価基準の要素となっているアンティークなど、月日を費やすことでしか生成しないモノの価値を知り、口では年齢が人のキャリアと言いながら、心底では「若いことは美しく老いは醜い」といった社会通念が宿っている。特に女性に対してはこの概念が顕著である。これは一体どこからやって来るのだろうか? そういった問いに対する答え、あるいは問いそのものを投げかけると共に、新たな美意識や価値観を創造しているアーティスト【やなぎみわ】の大規模な個展がキリンプラザ大阪で開催された。若くて美しい女性の特権をモチーフにしながらも批判的な考察を投影したエレベーターガールのシリーズの次なる展開として2000年から始まった『My Grandmothers』。若い女性の相対的な存在と言える「おばあさん」を主題にしたこのシリーズは、やなぎが直接出会ったり、Webで応募してきた若い世代の女性(男性でもいいらしい)のモデル達に自身の50、60年後を想像してもらい、更に、やなぎが求めるおばあさん像を重ね合わせて、コンピューターや特殊メイクなどあらゆる手段によってシチュエーションを創り上げて撮影した写真と、独自のシナリオが記されたテキストによる未来のポートレートである。私がこのシリーズを初めて観たのは2000年の京都/アートスペース虹での個展だが、その時の衝撃は今も忘れない。若くてかっこいい男性とサイドカーでハイウェイを颯爽と駈け抜けるエネルギッシュで魅力的な老婆がそこにいた。
今回の展覧会では、それから2年の歳月を経て様々な「My Grandmother」の肖像が制作され、その一連の作品群と共に新たな映像インスタレーションが出展された。そこには実在の「おばあさん」と「少女」が登場する。白く薄いカーテンで囲まれた円形の空間があり、その中央には肌触りの良い絨毯が敷かれている。観客がその空間でくつろいでいるとカーテンにマッチの灯りと共に何人かの「おばあさん」と「少女」が現れ、口々に『ハッピーバースデー』の歌を唄う。ケーキに当たる部分に位置する我々は彼女らに囲まれながら祝いの時を共有する。カーテンのドレープによって「おばあさん」も「少女」も顔が歪み若さ故の美しさの差異などは無くなり、一様に楽しげで幸福そうな表情を浮かべ祝いの席を囲んでいる。そして歌を唄い終わると次々にロウソクが吹き消されると共に彼女らは消えていく。
若いモデルの理想像をモチーフにしたこれまでの作品に登場する「おばあさん」は「女性性や母性を突き抜けた動じない憧れの到達点としての存在」と語るやなぎ自身のこだわりが反映され、むしろそういった操作によって無垢なおばあさん像を演出することで、フィクショナリーなユートピアを形成していた。でもそれらは当事者あるいは現実でないことであるから扱える主題として、ある種の絵空事として処理される行方の不安定さを含んでいたのかもしれない。しかしながら、現役のおばあさんと少女を混在させたノンフィクションを作品に投入したことで、表面的な要素を超越した『My Grandmothers』の主題としての強度が増したといっても過言ではない。 科学技術の発達により、クローン人間など生物としての老いの問題は解決できる日も近いかもしれない。だがしかし、憧れながらその未来が現実となった時に起こりうる様々な問題に対する警鐘を鳴らすSF小説には、必ずと言っていいほど人間の本質に由来するメンタリティーを重要視した結末が用意されている。そういった息苦しい問題定義ではなく、やなぎはあくまでもファンタジックな仕掛けによって、我々に必ず訪れる未来のユートピアを祝福してくれている。言い換えれば「おばあさん」という記号を通じて、「私」の生き方について熟考するための絶好の機会というプレゼントを我々に贈ってくれているのだ。 新世紀の幕開けと共に65歳以上の老年人口が15歳未満の年少人口を上回り本格的な大高齢化社会に突入した現在、一人暮らしの老年期の女性は男性の3倍強もいるそうだ。妻になり、母になり、伯母さんの「母」が抜けた頃に「おばあさん」になる。といった画一的な人生が解体され、それぞれのパーソナリティーに合った多様な老いの在り方が未来には存在しているに違いない。50年後、私は今と同様に、ほくそ笑んで自らの誕生を祝う宴の準備をしているのだろうか。
●学芸員レポート 今年もてんやわんやの時期が到来した。ミイラ取りがミイラではないが自分の企画準備で忙しく、芸術三昧の秋を堪能できてはいない今日この頃、、、。アートの動向は活気づいているのかもしれない。けれども背に腹は変えられぬ状況下、関西秋の陣のレポートは次回にお伝えすることでご容赦頂くとして、今回は当方のご案内を学芸レポートに変えさせて頂き現場に戻ります。
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