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第1回府中ビエンナーレ
ダブル・リアリティ――両義的な空間とイリュージョンの7人/ 傾く小屋 美術家たちの証言since 9.11 南 雄介[東京都現代美術館] |
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展覧会のいわば「外枠」としては、基本的に40歳以下の作家であること、作家数は10人以内で、その半数は多摩地域にゆかりのある作家とすること、1回毎にテーマをたてること、の3点が挙げられている。そして第1回目の今回も、もちろんこの枠組みの中で構成された展覧会となっている。出品作家は、金田実生、斎藤美奈子、佐藤尉隆、曽谷朝絵、太郎知恵藏、眞島竜男、山内幾郎の7人。絵画が3人、写真が2人、彫刻が1人、映像が1人。世代としては40歳から28歳まで、60年代生まれが中心である。 今回のテーマ、「ダブル・リアリティ」は、情報や映像が氾濫し、われわれを取り巻く現実がヴァーチャル化していくなかで、リアリティの在処を探る試みである。ヴァーチャル化している現実との緊張関係の中で自らのアートの成立を探る作家たちというテーマの着眼点は、今年初めに東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2002 フィクション?」とも共通するものがあるかもしれない。だが、「フィクション?」展がフィクションの紡ぎ手として画家をとらえていたのに対し、「ダブル・リアリティ」展では、媒介者としてのアーティスト像に力点が置かれている。すなわち、ヴァーチャルなリアリティと個的なリアリティ、その「二重の」リアリティを媒介する存在としてのアーティストの姿が提示され、同時にその「媒介者」のイメージが美術館のメタファーともなっている。 展覧会のキュレイターが、このように展覧会のテーマや構成自体に美術館のアイデンティティを組み込もうとしたその意図はひじょうによく理解される。なぜなら、このようなテーマ性の強い展覧会を企画するときには、キュレイターは私的なもの(個人的な見解、観察、美的感覚、等)と公的なもの(開催の意義、有効性、等)とのあいだで折り合いをつけることを余儀なくされるからである。とくに昨今では、美術館で展覧会を企画し開催することが必ずしも自明のことではなくなってきているだけに、なおさらその思いは強くなるのではないだろうか。 したがって、この「ダブル・リアリティ」のテーマ自体が、美術館(キュレイター)から観客へと向けられたメッセージなのだ。ヴァーチャルなリアリティと個的なリアリティを媒介し具現化するものとしてのアート。ヴァーチャルなリアリティと個的なリアリティを媒介する場としての美術館。観客は、教養主義的で受動的な鑑賞者ではなく、一歩進んで、アートを通じて自分自身を新たな目で見つめ直すことが推賞される。 (150年ほど前、写真術が発明されたときに、絵画は現実の単なる忠実な模写であることを超えた、新たなリアリティの表現となることを要請された。このこととアナロジカルに考えれば、今日、ヴァーチャル・リアリティや3次元CGを通じて想像界のリアルな可視化がものすごい勢いで実現しているときに、アートは想像力の実体化であることを超えた、新たな意味と機能をまとうことを要請されているのだということにはならないか) 展覧会としては、レンタルビデオショップを模造する眞島をのぞいて、近頃よく見られる参加型やインタラクティヴな作品やエンターテインメントを模した展示を排し、絵画、彫刻、写真といった、いわゆるオブジェクトとしての作品が並ぶ。全体に、完成度の高い、端正な印象の展覧会となっている。だが、そうだからといってコンサヴァティヴであるということにはならないのは、先に述べた通りに、展覧会として開かれた構造を持つことを意図されているからである(逆に、参加型だったりエンターテインメント的だったりする作品や展覧会には、「上からの」啓蒙的な意図を感じることが多くないだろうか?)。 まだ行ったことのない人のために付け加えておくと、府中市美術館は都立府中の森公園との関係がひじょうに美しく、また建物や展示室の空間やたたずまいがとても気持ちのいい、くつろげる美術館だと思う。こういう何気なく気持ちいい美術館建築って、どういうわけかなかなかないものなのだ。
●傾く小屋 美術家たちの証言since 9.11 またまた自館の宣伝を少し。これはセゾンアートプログラムの企画に東京都現代美術館が協力した初めての展覧会。9.11ニューヨークのテロ以降の、といっても必ずしも直接それに触発されたわけではない、作家たちの表現というテーマである。 Architectural Body Research Foundation (ARAKAWA + GINS)、齊藤芽生、豊嶋康子、中村一美、松澤宥、湊千尋、宮本隆司、山本糾、横溝美由紀という超ベテランから若手まで、油の乗った作家たちの充実した作品が並ぶ。「傾く小屋」というテーマには、今日の日本と世界の政治、経済、社会、文化の状況が集約され、それに対して作家たちは自らの「作る根拠」を提示するという力のこもった展覧会になっていると思う。 [みなみ ゆうすけ] |
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