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「じえいたいのおんな」、見てきました。なぜかひらがなです。「自衛隊の女」ではマンマすぎですか。「ジエータイの女」映画みたいです。「自衛隊のおんな」意味がちがってきます。新しい熊本市現代美術館でも同じテーマで展示されたそうで。なんでも、美術館と陸上自衛隊第8師団の協力のもと、BuBuさんといっしょに一日入隊して「女性自衛官のジェンダー意識調査」を行ったということで、ずいぶんと太っ腹な組織たちであるなあ、と思ったものです。残念ながら熊本の展覧会は行けませんでしたが、女性自衛官に話をしてもらったビデオなどを中心にした今回の展示、どうにか見ることができました。 で、自衛隊です。ここのところ、北朝鮮の拉致事件がクローズアップされてから特に、日本の軍備に対する世間の許容度も目に見えて変わってきました。場合によっては戦争だと吠える勇ましい都知事ほどでなくても、ずいぶんとメートルのあがった発言が飛びかって、それが何となく受け入れられています。やられたらやり返せ、やられる前に(もう一度)やっておけといわんばかりの、国家も党も民族もいっしょくたにした発作的な発言からは、「対テロ戦争」のうさん臭さを他国(アメリカ)については十分に感じているでしょうに、自分たちのこととなるすっかり忘れてしまう、あるいは、感じてはいるものの結局は力がすべてで勝てば官軍、現に世界はそのようになっているではないか!という開き直りなのかあきらめなのか、閉塞した社会の生臭さがただよってきます。で、そんなアジを聞くたびに、戦争したいならお前がまず行けよなとツッコミたくなるわけですが、実際にまず行くことになるのは自衛官で、そうした、国の権力を具現化する場所のまん中に自ら望んで立っている女性たちがいる、ということに対しての嶋田さんたちのフィールドワーク/作品が今回の展示につながったというところでしょうか。 嶋田さんはこの作品に関するテキストの中で、これまでの女性の運動における「男性性と軍隊の暴力がイコールで結ばれ、女性はその犠牲者、もしくは少なくともそれに積極的に参加するものではない」という認識、「反戦」「武装放棄」「憲法九条遵守」等の声が、その理念を否定するわけではないが、「戦闘位置にいる女子自衛官達の身体のリアリティの前にひどく空虚に響くように思えて」きたと書いてます。自分たちにとって「反戦」のリアリティはどこにあるのか、自衛隊と自分との関係を引き受けて考えたい、と。誤解はないと思いますが、嶋田さんはここで男性性による抑圧や国家の暴力を免罪しているのでも、戦争・武装OKといってるわけでもないです、当たり前ですが。現実から離れスローガン的に発せられがちな「反戦」を、当事者としての自分の位置に引き寄せつつ捉えなおしたいという意思の表明なわけです。そして、女性自衛官達の権利の確立を支援することによって軍隊の男性性的な構造を内部から変革し、最終的には軍そのものも解体していけるのでは、という可能性を指摘しています。少し要約してしまいましたが。 嶋田さんの誠実なスタンスに共感しつつ、と男である私にえらそうに言われても意味ないかもしれませんが、とはいえ男であっても言ってもいいと思うのですが、やはり疑問なのは、軍の解体ということの可能性についてです。女性自衛官の権利がさらに確立されるとすれば、それは女性も含めてこの国の社会が総体としてその方がコストが下がると認識される、といった状況下でしょう。これは企業でも団体でも地域社会でも同様だし、いずれ変革は可能かもしれない。しかし軍隊の仕事とは最終的に、味方と敵、私達とそれ以外、というように区分してその後者を抑圧するシステムの、それは国家であったり何らかの共同体であったりするわけですが、それらの力の具体化そのものでしょう。軍があるから区分があるのではなく、区分が消えないから軍も消えられない。どのように軍を変革しても、そして平時、どんなに軍が民主的で差別なく運営されていたとしても、それは「私達」にとっての話です。その「私達」が今こうしてしゃべっている私たちかどうかは分かりませんが。軍が自ら解体することはなく、あるとすればそれは外部が決定的に変革された時、具体的には、完璧な平和、一国独裁、占領ないし併合、といった事態の他にはないのではないでしょうか。 などと考えたりしたのですが、嶋田さんの作品はもちろん、あれかこれかといった結論を示すためのものではなく、多面的で現実的なスタンスを取ることを可能にさせる動機の提供そのもののようです。「私」(と思い思われているもの)は何で作られているのか、その「私」は何を作っているのか、ということを社会との関わりの中で認識させるシステムとして。 少し前になりますが、ビョークが来日してテレビに出演した時、アメリカでの同時テロの話の流れで、社会や政治に対してアートは力があると思うか、というようなことを聞かれていました。彼女は即座に、政治には二種類ある、国や世界のいわゆる「政治」と、自分の愛する人や出会う人とどのように関わって生きていくのかという「政治」、後の意味での政治の中でアートは必ず機能し、それは前者の政治ともつながっていくだろう、やや不正確かもしれませんがそのように語ってました。嶋田さんの展示を見ててなぜか、ビヨークの確信に満ちたその顔を思い出したものでした。
[もうり よしつぐ] |
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