千円札裁判
- One-Thousand-Yen-Note Trial
- 更新日
- 2024年03月11日
1963年から70年まで、赤瀬川原平の制作による千円札を模した作品が法に抵触するかどうかが争われた裁判。63年、赤瀬川は個展案内状の片面に千円札の表面のみを一色で印刷し、現金書留で郵送。ほかにも複製印刷をパネル化したり梱包作品に用いたり手描きの拡大図を作るなど、千円札はハイレッド・センター(HRC)として活動していた赤瀬川の主要モチーフであった。別件で押収された書籍に掲載された赤瀬川の作品図版を発端に警察、司法当局の知るところとなり、当時世間を騒がせていた高精度の偽札事件とも関連して64年に取り調べを経て書類送検。偽札としては機能し得ないこの作品を赤瀬川は「模型千円札」と名付け、この時点でいったんは終息するかに見えたが、翌年捜査が再開。11月に印刷業者2名とともに「通貨及証券模造取締法」(通貨及び証券に紛らわしきものの製造、販売の禁止)違反の嫌疑によって起訴される。67年6月東京地裁第一審で有罪判決、68年11月東京高裁で控訴棄却、さらに最高裁で70年4月に上告棄却され有罪が確定した。この裁判の歴史的意義は、事件性よりも法の場において芸術をめぐる言説空間が膨れ上がった点にある。瀧口修造、中原祐介、針生一郎ら特別弁護人を筆頭に多くの美術家、思想家、評論家が公判に参加。弁護側の主張の要点「芸術であるから無罪」を示すために議論は「芸術とは何か」まで敷衍され、裁判過程で過剰なほどの芸術の説明が繰り返された。「芸術」に対して冷めた態度で検証する立場はまさしくHRCの特徴であり、裁判がHRCによる(裁判自体はその活動終息後に始まったが)一大イヴェントと化したともいえる。むろん赤瀬川が払った代償は甚大だが、実際この裁判を通じて、HRCは戦後美術史に位置付けられる存在となった。
補足情報
参考文献
『オブジェを持った無産者』,赤瀬川原平,現代思潮社,1970
『赤瀬川原平の冒険』,紀伊国屋書店,1995
『ネオ・ダダJAPAN 1958-1998』,大分市教育委員会,1998
『コピーの時代』,滋賀県立近代美術館,2004
『真贋のはざま—デュシャンから遺伝子まで』,東京大学総合博物館,2001