『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』渡辺裕
- Choshu No Tanjo, Hiroshi Watanabe
- 更新日
- 2024年03月11日
1989年、音楽美学者の渡辺裕によって著わされた書物で、96年に新装増補版が出版された。作曲や演奏といった音楽生産の側の論理からではなく、音楽を聴くこと、あるいは消費活動と社会的背景に軸足を置いた考察が行なわれている。従来の音楽史では看過されがちだった観点からの音楽文化史として、本書の果たした役割は大きい。本書では、クラシック音楽の正統な受容を形成する19世紀のヨーロッパ的価値観が、必ずしも普遍的ではないことがさまざまな角度から論じてられている。これは著者が目するところの「音楽における近代の解体」であり、T・W・アドルノの『音楽社会学序説』(1962)がこの考察の発端となっているといっていいだろう。アドルノは正しい聴取を行なう「エキスパート」を聴衆カテゴリーの最高位に置き、音響の戯れに快を見出す「娯楽型聴取者」を批判した。しかし、渡辺はアドルノが批判したような聴取あるいは聴衆を批判も、非難もしない。本書は巨匠神話の解体、音楽会のファッション化など、それぞれのトピックから、いかにして音楽が「脱近代」を図ったのかを論じることに徹している。その結果生まれた新たな聴衆の概念が「軽やかな聴衆」だ。「軽やかな聴衆」とはアドルノが批判した「娯楽型聴取者」に近い存在で、彼らにとっては、崇高な理念の統一体としての音楽という概念は二の次である。ポストモダンの時代においてはこの「軽やかな聴衆」が台頭し、音楽に限らずあらゆる芸術において、細部の差異とその知覚への配慮が見られるようになった。このことは、美術に転じて、ミニマル・アートの興隆を見ればわかるだろう。本書が発端となり、音楽を取り巻くさまざまな社会的、文化的事象に焦点を当てた研究が以前にも増して盛んになった。聴衆論については音楽学者の増田聡による『聴衆をつくる 音楽批評の解体文法』(2006)なども参照されたい。
補足情報
参考文献
『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』,渡辺裕,春秋社,1989(新装増補版:1996)
『音楽機械劇場』,渡辺裕,新書館,1997
『音楽社会学序説』,Th・W・アドルノ(渡辺健、高辻知義訳),平凡社ライブラリー,1999
Einleitung in die Musiksoziologie,Theodor W. Adorno,Suhrkamp Verlag,1962
『聴衆をつくる 音楽批評の解体文法』,増田聡,青土社,2006