デザイン教育
- Design Education
- 更新日
- 2024年03月11日
産業革命以降、量産システムの確立と生産工程の分割は、手技をもつ熟練労働者を締め出し、不熟練労働者の増大を生み出した。その結果、製品の質の低下が露呈し、従来の優れた手工技術を伝承・習得する職業教育・徒弟教育制度に代わる、機械による生産方式に適合するデザイン教育が社会から要請されるようになった。産業革命を先駆けて経験したイギリスは立ち遅れたデザイン振興に国家的に関与するようになる。1837年には官立デザイン学校が設立されたが、51年のロンドン万国博覧会で示されたイギリス製品の美的水準の低さは、政府の文官ヘンリー・コールらを、同校の改革および初等教育課程に芸術教育を組み込むことによる底辺拡大へと向かわせた。他方、ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動は、機械による粗悪品が氾濫する状況に象徴される当時の社会に対する批判として出発し、反アカデミズムに拠る「諸芸術の統合」を訴えた。ドイツでは、同運動の思想に影響を受けたヴァルター・グロピウスが国立造形芸術学校のバウハウスを設立、「芸術と技術 新しい統一」をテーマに掲げるに至った。同校のカリキュラムは20世紀のデザイン教育を基礎付けることとなる。1933年の同校閉鎖後、主要な教員たちはアメリカ合衆国に渡る。グロピウスはハーヴァード大学へ、ミースはアーマー大学へ、モホイ=ナジはシカゴでニュー・バウハウスを設立した。同じころアメリカでは、クランブルック・アカデミーが名声を博した。戦後のドイツでは、バウハウスの志を継承するウルム造形大学が設立され、学長マックス・ビルのもと、プロダクト・デザイン、建築、ヴィジュアル・コミュニケーション、インフォメーションの4学部を設け、後には文化人類学・記号論・心理学の学科がカリキュラムに取り入れられた。またブラウン社に代表される産業界と密接な協力関係を保ち、インダストリアル・デザインの発展に成果を挙げた。68年に閉校したが、その「環境形成」論と実践は、デザイン界に大きな足跡を残している。
補足情報
参考文献
『バウハウス・システムによるデザイン教育入門 』,武井勝雄,造形社,1964
『美術アカデミーの歴史』,ニコラウス・ペヴスナー,中央大学出版部,1974