日本民藝館
- The Japan Fork Craft Museum
- 更新日
- 2024年03月11日
1926年に柳宗悦らが計画し、36年東京・駒場に開設した民藝運動の核となるミュージアム。その源流は、24年、柳が浅川兄弟の助力を得て、京城(現ソウル)の景福宮内に開設した「朝鮮民族美術館」であった。従来看過されてきた日用の生活用具類に美的価値を認めようと、翌年、柳は濱田庄司や河井寛次郎らと共に「民間から生まれ民間で用いられる工藝品」の意である新造語「民藝」を提唱。その翌年には、さらに富本憲吉の賛同を得て「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。28年、上野で開かれた御大礼記念国産振興東京博覧会に「民藝館」をパヴィリオンとして建築。同運動の理念が住宅と什器の統合の結果に具現化され、この試みが後の日本民藝館に具体化されることとなる。その8年後、実業家大原孫三郎をはじめとする賛同者の援助を得たこともあって、柳を館長として日本民藝館が開館した。木造2階建瓦葺きの土蔵造り風建築である同館は、彼自身の設計によるもの。日本の古陶磁・衣裳・大津絵・木喰仏・染織品のほか、朝鮮時代の陶磁器・絵画・木工品、イギリスのスリップウェア等諸外国の工芸品、また民藝運動に参画した個人作家の作品を収蔵している。近代以降の民藝復興を目指していた柳は、同館を公衆の啓蒙目的のみならず、製作に携わる工人の教育の場とすべく期待していた。また、民藝における「無心の美」を提唱する彼は、「個人作家」が「民衆工人(職人)」を指導することによって構築される生産システムを構想した。しかしそれには矛盾があり、民藝理論と実践は必ずしも一致しているわけではないと指摘されている。なお柳は34年に日本民藝協会を発足、民藝運動は地方に波及・拡大したほか、同運動に共鳴した人々によって設立された民芸館が全国各地にある。