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裸体画論争

ratai-ga ronso
更新日
2024年03月11日

明治期において新聞や雑誌等のジャーナリズムを舞台に「裸体画」をめぐって交わされた一連の論争。裸体画を盛んに制作した黒田清輝や、彼が属していた白馬会が、論争において裸体画を強く支持した。日本における裸体画の嚆矢は、黒田清輝による《朝妝》(明治26年・焼失のため現存せず)である。この作品は、黒田がヨーロッパから帰国した後の明治27年、明治美術会第六回展に出品された。このときは何も問題にはならなかったが、翌28年、京都の岡崎公園で開催された第四回内国勧業博覧会に出品された際、その出展可否をめぐって論争が巻き起こった。黒田にとって裸体画は、自らが滞欧中に学んだ西洋美術の普遍的な美を体現したものであった。実際、紀元前5世紀頃、ギリシア人によって描かれて以来、裸体画は肉体と精神を統一した人間の全体性を表したものとして西洋美術の規範に組み込まれてきた(イギリスの美術史家、ケネス・クラークは、その美の理想像としての裸体を「nude」として、裸の肉体そのものを指す「naked」と概念的に区別した)。それゆえ「美術」を日本社会に輸入し、定着させることを目指した黒田にとって、裸体画は「美術」を社会に公認させるための重要な手段だったのである。ところが、近代日本において裸体画は風俗を紊乱する春画の一種とみなされがちだった。西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとって、そもそも裸体は先進国にふさわしからぬ野蛮な習俗であり、事実、明治4年、東京府知事により「裸体禁止令」が発令されると、公の場で裸体になることが処罰の対象となった。これを徹底させるためにも、裸体画を公共空間で堂々と展示されては都合が悪かったのである。結局、同博覧会審査総長の九鬼隆一の判断により《朝妝》の展示は継続された。続く明治30年、黒田は日本人をモデルにした初の裸体画とされる《智・感・情》を白馬会第二回展に出品するが、新聞紙上で論争が起こったものの、官憲による取り締まりはとくに見られなかった。だが、明治34年の白馬会第六回展において、警察は本格的な取り締まりを実行する。黒田による《裸体婦人像》をはじめ、黒田がフランスから持ち帰ったラファエル・コランの《オデオン座天井画下絵》、湯浅一郎の《画室》などが、著しく風紀を紊乱するとして、警察は特別室での鑑賞という制限を求めた。これに対し、黒田と白馬会はあくまでも一般観衆への公開にこだわった。その妥協案が、当該作品を額縁ごと布で覆って展示する方法だった。これが後に「腰巻き事件」と言われた出来事である。むろん、裸体画をまなざす男性の視線の中にエロティシズムが含まれている点は否めない。だが、そのような要素を可能な限り排除することによって、美術作品を鑑賞する視線を自立的に確立することができるのではないか。近代日本における裸体画論争の根底には、そのような美術の専門的な鑑賞者を育成する戦術的な意図も隠されていたのである。

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参考文献

『近代画説』1997年3月号,「白馬会と裸体画」,植野建造
『講座日本美術史6美術を支えるもの』,「美術における政治表現と性表現の限界」,北澤憲昭,東京大学出版会,2005
『美術研究』第392号、2007年9月,「絵画の下半身──1890年代〜1945年の裸体画問題」,蔵屋美香
『ザ・ヌード』,ケネス・クラーク,筑摩書房,2004
『裸はいつから恥ずかしくなったのか』,中野明,新潮社,2010
『日本近代美術論争史』,中村一義,求龍堂,1981
『芸術新潮』1993年5月号,「近代日本裸体画史」,宮下規久朗