インタビュー2:中崎透さん(アーティスト)

第2回は中崎透さんにお話を聞きました。中崎さんは個人としてのアーティスト活動の他、ナデガタ・インスタント・パーティーというアーティストユニットでの活動や、水戸にあるキワマリ荘の中にある「遊戯室」(中崎透+遠藤水城)というオルタナティブスペースを共同運営したり、なんともとらえがたく魅力的な活動を行っています。

今回は中崎さんのナデガタでの活動と今後のドキュメンテーションの可能性を中心に話を進めています。インタビューには先日まで水戸芸術館で行われていた「大友良英/アンサンブルズ2010共振」のポスターで使用したターンテーブルの写真を撮影した写真家の山岸剛さんにも同席してもらいました。

ナデガタ・インスタント・パーティ

加藤 中崎君はナデガタインスタントパーティというユニットでいろんな場所に出向いてワークショップとかプロジェクトを行っていますよね。

中崎 一番最近のものでは2010年の12月に静岡県の袋井市で「Instant Scramble Gypsy」というプロジェクトを行いました。会場は2つあって、まずは月見の里学遊館という、ワークショップセンターと位置づけられた郊外型のショッピングモールの隣にあるような広くてきれいな大規模な公共施設。もうひとつはニュースタイルカルチャーセンター「どまんなかセンター」です。ここは旧市街の中心部にあって、もともとは中村洋裁学院という建物でした。
例えば、今までのプロジェクトだと、会期の前日になんとか完成してできあがった展覧会をのんびり眺めたり、ライブ的な本番があって、ワーっと盛り上がって、どかーんと打ち上げがあるみたいな流れで何かしらの区切りがあるのが普通だけど、今回はピークがないまま続いていって終わってく不思議な起伏があった。
リノベーションをしたりとか手作業も多かったけれど、やっぱりこの企画の作品の核となるところはシナリオなんだよね。ぼくらが任された会場が写真展が開催されて使えなくなって、別館を用意することになったというひとつのシナリオ。アートは善的なもの、美しいものということを前提におかれることで、写真展という口実で公共施設を占拠できてしまう現状であったり、与えられたものではなく必要なこととして行動したら、建物を作ることと比べてものすごく低予算で疑似公共施設が作られてしまうといった、コミカルなんだけどある意味とてもアイロニカルなシナリオ。
で、さらに面白かったのは、そういうちょっと悪意をもったシナリオがベースにあるんだけど、ふたを開けてみたらどちらも善意に満ちてて、しかもめちゃくちゃ盛り上がっちゃったんですよ。つまり、シナリオの整合性でいうと、ほんとうは手作りでやったどまんなかセンターの方が盛り上がった方がわかりやすいはずなんだけど(笑)。その辺がこのプロジェクトを妙なものにしてしまっているところかもしれない。
結局ぼくらが運営していたのは3週間だったけど、どまんなかセンターはその後も残ることになったんです。

月見の里学遊館で行われた「YAH! YAH! YAH! わたしの袋井写真展」

《Instant Scramble Gypsy》2010 「YAH! YAH! YAH! わたしの袋井写真展」風景, 月見の里学遊館(静岡) ©2010 Nadegata Instant Party

どまんなかセンターで繰り広げられた数々の出来事
どまんなかセンターで繰り広げられた数々の出来事
《Instant Scramble Gypsy》2010「どまんなかセンター」©2010 Nadegata Instant Party

加藤 そういえばぼくがはじめてナデガタを認識したのは、水戸芸術館で2009年に行われた「現代美術も楽勝よ」展でした。殺人事件現場としての静的な展覧会場と、そこで起こったできごとをまとめた映画上映という前代未聞の展示でしたね。美術館はここまできたか!って思いました(笑)。

中崎 「Reversible Collection」という作品です。あれは基本的には水戸芸術館のコレクション展の関連企画としての位置づけで、市民を巻き込んで『学芸員Aの最後の仕事』という映画を制作したんですよ、「ダヴィンチコード」の水戸芸術館版とか言ったりしてました。内容としてはコレクションの展覧会開催の前々日に担当学芸員が会場内で何者かに殺され、展覧会の中に学芸員が残した数々の謎を解き明かしていく……といったストーリー(笑)。搬入途中という設定だったので、会場のあちこちに工具や梱包材が残っていたり、展示の最後の部屋で映画が上映されていたり、展示空間には現場検証の後とかあったり、ミステリーを下敷きにしつつ部屋ごとの展示テーマはほとんどギャグになっている(笑)。謎解きのシナリオを作らなきゃいけないという口実で、作品の選定、配置、テーマ設定まで関わらせてもらいました。

加藤 前回このブログでインタビューを受けていただいた学芸員の竹久さんは映画の終盤でなぜかUFOを呼ぶ役を演じていましたね(笑)。市民どころか芸術館のスタッフも総出演でした。

中崎 通常のコレクション展を観て、最後に展示会場を舞台にした映画が上映されている。映画を見終わってから展示に戻るとそれは映画のセットとしても観られてしまうわけで、まさにリバーシブルな経験ができる空間を作った感じですね。
プロジェクトを考える上での水戸芸術館からの最初の要望としてはおおまかに 1. コレクション展であること 2. ナデガタのモノとしての作品は出品しない 3.市民を巻き込む といったことで、頭をひねった結果あんなものができた。これはもうほとんどトンチだよね(笑)。コレクション展は市民の財産を公開する義務という名目があるけど、ぼくらにとってはどうやってその中で構造とか仕組みをつくるかといった戦いだったんですよ。「Reversible Collection」は水戸芸術館のモノとしてのコレクション作品に対して、20年間かけて培った人や地域との関係といったカタチにならないコレクションをスクリーンの中に映し込むといった模範解答のようなコンセプトでできてるんですが、その中身は美術館や展覧会といった制度自体にむけた冗談とかパロディの視点がかなり含まれてました。そういったところが作品の中心のひとつなんだけど、たぶん美術館側としては立場上そこに言及できない部分とかもあって、そういう気付きもおもしろかったです。

「現代美術も楽勝よ。」展 水戸芸術館

水戸現代美術センター「現代美術も楽勝よ。」展覧会風景 photo:Ken Kato

「現代美術も楽勝よ。」展で上映された映画「学芸員Aの最後の仕事」
「現代美術も楽勝よ。」展で上映された映画「学芸員Aの最後の仕事」
《Reversible Collection》2009 映画「学芸員Aの最後の仕事」©2009 Nadegata Instant Party

ドキュメンテーションのかたち

加藤 今話してもらったようなナデガタのようなプロジェクトには根本的に形がないわけですよね。そこに形があったとしても副次的なものだと思います。その場合、どのようにドキュメンテーションとして形に残していくか、というのがかなり重要なんじゃないですか?

中崎 そうそう。ナデガタがやっているようなプロジェクトで、映像とか写真をメインにしたドキュメンテーションを作ろうとすると本当にキリがない…。多分ぼくらが目指すのはそこではないと思ってます。例えばYCAMで行われた大友さんのアンサンブルズのドキュメンテーション(『ENSEMBLES』大友良英・著/月曜社)は日記形式で綴られていましたよね。そういうチャレンジはいくらでもあると思います。展覧会の記録写真と批評文を載せたいわゆる展覧会カタログとは違うとらえ方を探っていきたい。

加藤 水戸芸術館、日記形式つながりで言えば川俣正さんの『Book in Progress 川俣正デイリーニュース』(川俣正・監修/INAX出版)なんてのもありますね。
ともあれ、そこで起こった出来事を忠実に再現するというのはある種の理想なんだと思うんだけど、それを突き詰めていくとやはり無理がある。そもそも「そこで起こった唯一の出来事」という概念自体がやはりフィクションなわけだよね。膨大なアーカイブがまずあって、そこから何らかを選んで編集してパッケージするという一つのプロセスがあるとして、そこにはほとんど無限のバリエーションがある。もちろんその素材をどう作るかという問題も大きい。記録には写真や映像、音声とかいろんなフォーマットがあるけど、もっといろいろあっていい。

中崎 袋井のプロジェクトのドキュメンテーションはテキストをベースにして物語に近い方がいいんじゃなかという話をしています。どまんなかセンターはリノベーションをしたけど、インスタレーションじゃない。重要なのは場所ができるまでのシナリオなんだよね。

山岸 そういう意味で物語ってことね。そこがうまく描ければ相当おもしろいね。

中崎 例えば、ドキュメンテーションのかたちが作家からくるモチベーションなのか、デザインや編集の観点からくるものなのかとかいろいろな入り口があると思うんです。ぼくらはまだ予算的なことを引き出す力がないし実際にドキュメンテーションの媒体を主体的に作れる環境までたどりつけてないというのが現状かな。でもそういった近い問題意識を共有した同世代のデザイナー、アーティスト、編集者、キュレーターの横のつながりのなかで生まれる情報交換は本当おもしろいと思う。

加藤 このブログではまさにそれをやりたいんですよ(笑)。

山岸 ぼくが現代美術はまだ不十分だと思う理由はその保存形式にあって、残る物が無いとなかなかそれが伝わらない。それが発明されないとやっぱり歴史に残れないんじゃないか。例えばタブローには物質としての強度があるよね。タブローに匹敵するような強度を何か別の形で担保しないとまずいんじゃないかな。

中崎 絵画にしても当時はライブ感覚があったんじゃないかな。それぞれ時代背景の中で生まれた意味があって。その当時の社会情勢も価値のあり方も今とは違う。でも、今見てると当時のライブ感からずれてしまっていて、そのときの本当に大事だった部分が抜け落ちているけれど「残ってる」。残っちゃったっていう結果が大事だったりもする。でも絵画は定型化された形での保存であって、ぼくらが今話しているドキュメンテーションとはやはり違う。ぼくらが面白いと思っていることを形にするとどうしてもインスタレーションになっちゃうんだよね。きっと別の残し方ってあるんじゃないかって。ぼくは今まで展覧会という形式はひとつの記録媒体だと思っていたけどやっぱりライブなんだな。だからもう一回別の媒体にしなきゃならない、入れ子状態できりがないのかもしれないけど、そこに向き合って四苦八苦してみようかなと。

加藤 今日はいろいろな話を聞きましたが、ナデガタは一見混沌として見えるけど考えは明確で一貫してるね。よくわかりました。

中崎 ナデガタは3人のメンバーで活動しているんですが、やはりグループ作業だとひとつひとつ明確に言語化してないとプロジェクトが進まないんですよね。だから結果的に一人で制作するときよりプロジェクトの構造がクリアになる。だからプロセスの中で現場がどんなにぐちゃぐちゃになっちゃっても、最初に明確にした部分があるからぼくらは最後までプロジェクトを続けられるんですよ。

ブロガー:加藤賢策
2011年2月6日 / 13:03

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