今回はアーティストの下道基行さんです。2005年にリトルモアから出版された写真集『戦争のかたち』で注目され、その後も写真をベースにしながら幅広い活動を行っています。
先日インタビューした中崎透さんとは大学時代に同級生だったそうです。ちなみにぼくも彼らと同じ美術大学卒で学年は2年上。とはいえ在学中は彼らと面識もなく、つい先日水戸芸術館で1月まで行われていた大友良英さんのENSEMBLES展のドキュメンテーションの仕事で初めて顔を合わせたばかり。そんな縁もあり、今回は中崎さんのインタビューの中で話されたテーマを引き継ぎつつ話を始めました。
加藤 先日、このブログの企画で中崎透さんにインタビューをしました。ご存知の通り、彼らが作るものは明確な形があるものというよりは「ことを起こす」ことだったりするわけです。そこでそういったものをどう記録していくかという話に及び、何か具体的な記録の手法の話までには至らなかったのですが、そのことはかなり重要なテーマだと思いました。
下道さんはリトルモアから『戦争のかたち』という本を出版されています。ぼくらの世代は直接的に戦争の経験はないわけですが、下道さんが日常の中で出会った戦争の痕跡が「驚きをもって」というよりは何と言うか非常に淡々と記録されているように思いました。下道さんはそれまで作品として写真をよく撮っていたんですか?
下道 いえ、作品としては『戦争のかたち』が初めてです。その本に載っているような戦闘機を隠すためのシェルターや、砲台の台座、変電所跡といった戦争の痕跡に出会ってから初めてカメラを構え始めました。そのときは、これに向き合うには写真じゃないと無理だと思ったんですよね。
ですが本にまとめる過程で、写真を撮ることも重要だけど、それだけでは何か重要なものがこぼれ落ちてしまうという思いも強まっていった。その思いがRE-FORT PROJECTへのアクションにもつながっていくわけです。
RE-FORT PROJECTでは『戦争のかたち』から一歩進んで、そこで扱っているような戦争の遺構になにか別の機能を与えて転用するといった試みをしています。例えば戦争中は着弾を監視する機能を持った「監的壕」を占拠してバーベキューを行ったり、砲台の台座をカラオケの舞台に見立ててお花見をしたりしましたね。
加藤 ブログにはその砲台の台座でヒッピー風の格好をしてフォークソングを歌ったとか書いてありましたね。かなり笑えました。『戦争のかたち』の中に掲載されている写真の中にも遺構がただ忘れ去られているものもあれば、車庫や畑の囲いとして転用されて生活の中にとけ込んでいるものもありました。そういうことをもっと積極的にやってみるという感じですかね。
ぼくは下道さんにはもともと写真家というイメージがあったのですが、お話を聞いて、下道さんにとって写真という表現領域はある程度相対化されているんだなと思いました。
下道 そうですね。あまり写真を上手く撮ろうとはしてなかったし、普通に下手だと思います(笑)。『戦争のかたち』でやったようにある種のタイポロジーで撮っていくと、ベッヒャーといったドイツ写真の文脈に強引に結びつけられてしまう。そうすると文脈も変わってしまうし、お門違いな批判を受けるわけですよ(笑)。そういうものにいろいろ回収されてしまう危険性がある。当時はなんだかそういうことが本当に面倒くさかった。
というのも、伝えたいものはやっぱりそこじゃないからですよ。当然のことかもしれませんが、アートや写真が好きで実践している人はそれぞれの分野の歴史やマテリアルと戦おうとするんですね。ぼくは基本は写真の歴史と戦いたいわけじゃないから、もっとニュートラルに、自分にしか見えない風景や伝えたいことをどうやったら提示できるか、そのことしか考えていないんです。
加藤 「写真」という分野もそうですが、「戦争」というキーワードに対してもいろいろ突っ込んでくる人が多そうですね。。。
下道 なぜ写真というメディアを使用したのかといろいろな人に質問されました。でも、カメラって普通に物心つく前から家に転がっているじゃないですか(笑)。あらゆる人がそうであるように、身近な道具でしたとしか言えないですよ(笑)。「戦争」というキーワードにしても、そのこと自体へのこだわりというよりは、日常の風景に重なっているレイヤーの一部としての「その時代」という側面の方が重要なんです。
見えない風景
下道 そういったこともあり、今度は写真的な体験を分解して、写真を使わずにいかに写真的なことができるかということを考えています。
例えば、これは大阪にある国立国際美術館で行った「見えない風景」というワークショップなんですけど、参加者はまずあるエリアの白地図を渡されるんですね。その地図には道順が指示されていて、そこをたどりながら気になったものを言葉で記述していく。その際なるべく固有名詞を使わず、例えば「バンダナを付けたおしゃれ犬」とか、スナップ写真をとるようにその風景の中でいつか消えてなくなってしまうものをあえてランドマークとして記していきます。そんなふうに自分が発見した自分だけの風景が地図というフォーマットの中に描きあがるというわけです。他人の描いた言葉の地図を見ると視覚を交換するようにその風景を追体験することもできる。
失われていくものが記録されている地図なんですよね。そこに残すべき現物がなくてもいい。そういう意味では地図というのは失われるものを残す手段の一つなんだと思います。
加藤 石を刻んで残すとか強度のあるメディアを使うことが残すということというだけではないわけですよね。残し方の理想形を追求するというよりは、残し方の幅みたいなのを測っている感じ。とてもおもしろいです。
下道 基本的には風景を残したいとか建物を保存したいという気は全然ないです。ただ、その一瞬を視覚化できればいいと思っています。とはいえ展示というフォーマットに載せる場合はやはり悩ましい問題でもあります。
加藤 作家は「展示」を「しなければならない」わけですよね。
下道 なんだか最近はみんな「展示」という形式がちょっと退屈になっているんじゃないかな。写真の展覧会も飽和している気がしますし。ぼくは写真をどう見せるかというよりは、もっと生っぽい感じとか現実に引き戻されてくるような感じをどう出すかとかそういう表現に興味があります。写真の展示をすることにも興味はありますが。
日常との戦い
下道 最近ベトナムへ旅行しました。ここの若いアーティストはなんだかギラギラしてましたね。ベトナムはコミュニストが牛耳っていて、アーティストたちはそういった自分たちを抑圧するものから解放されるために作品を作ったりアクションを起こしているように見えました。つまり彼らには明確な敵がいるわけ。だから若者にパンク的なパワーがあって「どうやってアイデンティティを勝ち得るか」みたいなテーマが自明のこととして存在する。いいかどうかは別にして、非常に分かりやすくてパワフルです。
一方でぼくは何と戦っているのかなと考えると、例えばこのフラットな「日常」や「風景」だったり、歴史的な厚みをすっ飛ばしてしまうようなスピード感だったりするわけです。ぼくはそんな「日常」の中で突然“戦争の歴史”に出会ってしまったわけです(笑)。街を歩いていたらどす黒いコンクリートの遺構が屹立していて、ここではない何か別の世界の空気感が漂っている。何じゃこりゃと。
加藤 日常の裂け目みたいなものですかね。
下道 そうやって日常が開いていく隙間ってのは意外といろいろあると思います。ぼくはたまたま戦争の歴史と出会いましたが、サムライの時代と出会っても不思議ではなかった(笑)。
加藤 写真で記録することからスタートして、さらに写真的なものから離れRE-FORT PROJECTのようなアクションに至り、なお記録することの幅を試していくという流れはとても興味深いと思いました。ありがとうございました。
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