3月11日からもうすぐ4ヶ月。なんて時間が過ぎ去るのは速いのだろうかと思うのは私だけでしょうか。大きな揺れを感じたあの日は、春というには厳しすぎる寒さでした。それに比べて、今のこの暑さは何なんでしょうか。
あの日から今日に至るまで、徐々に暖かくなり、暑くなるにつれて、津波や地震、原発事故について伝えるメディアの情報量は、少しずつ減少してきました。当然と言えば当然でしょうし、いつまでも震災のことや、震災による悲しみや痛みを引き摺るわけにはいかない、ということもあるでしょう。が、しかし、史上稀に見るような大惨事が、これほど簡単に忘れ去られていくものなのか、という気もします。
少し話が変わりますが、この震災で私自身は何が変化したかというと、決定的に、マスメディアに対する信頼を失ったことです。以前はマスメディアに対して、ある種の信頼を、ある程度は、無自覚に持っていたのですが、震災と原発事故の報道によって、自分でも驚くほど信頼できなくなりました。中でもテレビについては、どれほど私たちは日常生活や価値観に大きな影響を与えられてきたことか、どれほどテレビの情報を鵜呑みにしてきたことか、どれほど眼差しを向けるべきことから目を逸らし、記憶すべきことを忘却してきたことか。
そういう状況の中で、私は美術家/映像ディレクターの藤井光さんの映像に出会いました。私も関わっている「アートNPOエイド」という活動で、藤井さんは「3.11アート・ドキュメンテーション」と題したいくつかの映像をアップロードしてくれています。被災地のアート関係者へのインタビューや被災現場の状況を伝え、その中で、芸術がどのような役割を果たしているのか、果たすべきなのかを、見る人自身が考えるきっかけを与えてくれています。
例えば、5月11日に開催された南三陸町の追悼集会の映像。そこには、祈りを捧げる人々、静かに流れる音楽と時間とともに、テレビカメラやマイクを持つ人々、空中からのヘリコプターの音、おびただしいカメラのシャッター音……この映像の中に映し出されている、テレビカメラやマイクやカメラのシャッター音やアナウンサーの声によって切り取られた情報が、テレビや新聞や雑誌を通じて多くの人々の目に触れることになるわけです。
マスメディアが伝えるような被災地の状況や被災者の表情と、藤井さんの映像が伝えるものは、まったく違うものだと私には感じます。カメラの被写体に「何かを言わせようとする」、あるいは視聴者に「何かを思わせようとする」といった強制がない。被写体に対する共感はあっても、それに色を加えようとはしない。ただ、静かに眼差しを向けて、耳を傾けている藤井さんが、そこにいる。
日々刻々と、震災についてマスメディアが伝える情報が少なくなっています。が、考えてみれば、もはやマスメディアは、その日の視聴率、その日の購読者を獲得するための情報媒体でしかなくなっているのではないでしょうか。そういう中で藤井さんは「もう一つの眼差し」を提示し、その眼差しとともに記憶に留めているように思うのです。
そして、今こそアーティストは、社会に対して「もう一つの眼差し」を提示するときだと、私は強く思います。
追記:藤井光さんの映像作品「仙台市若林区」は、ぜひ、見ていただきたいです。ナマの風景と、ナマの目と耳が、そこにあります。