ファッションとストリートについて考えてみる

こんにちは、水野です。

今回はファッションデザインとストリートについてお話したいと思います。といっても、これまでにも重要なトピックとして、社会学、あるいはカルチュラル・スタディーズの領域では様々な研究が行われてきました。現在でもWebでは「ウェブアクロス」、書籍ですと「Sartorialist」など、現在進行形で都市空間を色どり、使い倒す人々の様々な様装を様々なところで見ることができます。

イギリスでは写真家のテッド・ポレマスや社会学者のディック・ヘブディジらの研究がある種のマイルストーンになっているファッションとストリート研究ですが、日本ですと「暴走族のエスノグラフィ」などでしょうか。この辺の話ををたどると、歴史的にはボードレールのフラヌールの話、あるいはベンヤミンのパサージュの話、はたまた今和次郎の考現学などとも関係してくるのでしょう。

そんなこんなで都市のストリートには様々な形のファッションが存在し、その移ろいゆく様などを分析対象として捉えた例が散見されるわけです。

そんな中、最近の都市部におけるファッションからはどんなことが見つけられるのでしょうか。このブログを編集している齋藤さんは、最近代官山を歩いて見たところ、以前と様子が違うことに気づいたそうです。どうやらラグジュアリーブランドを取り扱うところが減った気がする、というのです。つまりは、ラグジュアリーブランドの服を着ている人が減ったのでしょうか。

景気が悪いから消費者意識が向上しない、ということもできるかもしれませんし、あるいはWeb上で買えるから、という消費行動に関する話もできるかもしれません。また、町として飽きられた、再開発によって町の魅力が減退した、ということも考えられます。あるいは、ラグジュアリーブランドに価値を見出せなくなったのかもしれません。いろいろな理由があるはずです。

それでは、ファストファッションと呼称されるスタイルがストリートを席巻しているのでしょうか。それがストリートを生み出すことになるのでしょうか。ラグジュアリーブランド、少数生産でコアなファンがついているスタイルは、デザイナー/ユーザ、あるいはユーザ間につよい結束を生みます。日本では、そうやってストリートは消費によって生産、再生産されてきたといえるでしょう。ユーザ自身が生産者となって、自らがスタイルをパンクのように作り出した例はコスプレや暴走族くらいなのかもしれません。消費によるアイデンティティ形成と、生産によるアイデンティティ形成という大きな違いがあるように思えます。この点だけで見ると、ファストでもスローでも、アイデンティティを生成する手段としての消費を通している限りあまり違いがないように感じます。

ところで、私たちは見えない形で生産をし始めました。それは、TwitterなどのSNS、あるいはニンテンドーDSやソニーPSPなどの通信プレイなどに代表されるモバイルデバイスの利用に明らかでしょう。この間、コンビニがwifiネットワーク提供するというニュースがありました。マクドナルドでたくさんの人たちがネットワーク通信を利用している様をすでに私たち見ることができますし、秋葉原でのドラクエストリートすれ違い通信やストリートコンピューティングを見ていると、ストリートは見る/見られるというフーコー的な話から、見える/
見えないインタラクションの場として捉えることが重要になってきたといえるでしょうか。

となると、ラグジュアリーブランドが減り、ファストファッションが隆盛している今の現実空間でのファッションは、これかますます情報空間におけるアイデンティティと関係を深めていくことでしょう。現実空間/情報空間のインタラクションが加速し、密度があがるにつれて、私たちは消費を通したアイデンティティ形成と、生産を通したアイデンティティ形成の狭間としての プロシューマブル・アイデンティティを目指すことになるのでしょうか。情報空間におけるインタラクションに比重をおく人が同一化を図り都市に埋没したり、現実空間におけるインタラクションを重視する人は都市で差異化を図るような、そんな消費者心理がやがて形成されるのでしょうか。

今日はそんなことを考えながら、新幹線でこのブログを書いてみました。

みみみみみみ

ブロガー:水野大二郎
2011年7月23日 / 14:18

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