こんにちは、臼井です。ひきつづき「アーティスト・イン・児童館2011 Nadegata Instant Partyプロジェクト《全児童自動館》」について。美術のための作品制作と、遊びのための活動の普及という2つの目的を統合することを目指すアーティスト・イン・児童館では、中高生の居場所づくり事業を行う練馬区立中村児童館に、アーティストユニット「Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)」を招待します。今回は彼らの魅力をぼくの視点から書き連ねてみます。
文化祭っぽい、現代美術 ーNadegata Instant Party
文化祭っぽい!これがNadegata Instant Partyの最初の印象でした。2008年の「赤坂アートフラワー」で見た《Offline Instant Dance》のイベント後の展示物は、ベニヤ板にペンキで塗られてできた舞台装置。D.I.Yでパッと見ではロークオリティ、片付けていないだけのように見える「使用後」感。その当時20歳のぼくの中には「美術を鑑賞する」ということの既成概念がもう出来上がっていて、えー、こないだまで自分がやっていた「文化祭」と変わらないじゃん、これが美術なの?という違和感がはじまりでした。しかし、どうにも気になって他のプロジェクトを調べていくと、そのチャーミングな悪ふざけに引きこまれていきます。その後展開していく、美術館を舞台にした市民映画を口実に本物の展覧会をつくってしまった《Reversible Collection》や、テレビ局をつくろう!というふれこみで200人の市民と共に24時間の熱狂の生放送を繰り広げた《24 Our Television》などは、ぼくの目には慎重に仕込まれた?圧巻のハプニングでした。
中高生と何かやってみたい、と考え始めていた2009年頃、彼らと何かできないだろうかと考え始めました。そこでぼくが見たいものは2つありました。1つは、「文化祭」のような雰囲気でその場を遊びたおす彼らですが、中高生が参加者であればリアルタイムで体験している本物の「文化祭」との差異が見えるんじゃないか、ということ。2つめは、その差異にこそ、アートの文脈の上で彼らが挑んでいる主題があり、それを描き出す技術は今世の中が求めているものなのではないか、ということ。
道化か、美術か
Nadegata Instant Partyは、映画やテレビ、テーマパークなどの大衆文化やエンタテイメントのパロディを用い、さらには既存のアート(比較的新しいとされる「参加型アート」さえ)もパロディ化しながら現代美術として自らを位置づけています。マーケットや教育やマスメディアあるいは「参加型アート」が使う”人々を動かす仕組み”を、とぼけたネタの口実をもとにインスタントに組み立てつつ、実際に人々が集まり動いていく”出来事”を生み出していく。その”仕組み”と”出来事”をセットで作品として発表しています。 特有のグダグダ感をもって、その場に居合わせた参加者/観客に(違和感や疑問も含めて)ある楽しげな体験を与える「道化」のようにも見えますが、深めて見ると、社会の制度や観客のまなざしを批判的に扱う「コンセプチュアル・アート」の系譜にあることが納得できます。この2つの側面を持ち合わせていることが彼らの魅力であり、戦略なのでしょう。
ナデガタの「映画をつくろう!」というようなキャッチーなコピーは多くの人の興味を引きつけます。アートであろうがなかろうが参加者にとっては映画づくりに参加することが目的であり、ナデガタは「道化」としてその目的を共有しつつ、一方でその一連の”出来事”を「美術」として提示していきます*。参加者にとっては映画作りだけで得難い体験だし、学ぶこともたくさんあるでしょう。しかしそれだけでなく、ぼくはこのナデガタの「美術としての提示」の方法のなかに、今世の中が密かに求める”新しいリテラシー”があると見ています。1つはありふれた「楽しいこと」を参照してお祭りをつくりだす「D.I.Yの技法」であり、もう1つはぼくたちを取り囲んでいる「見えない壁」を使いこなす「仕組みづくりの技法」です。前述した文化祭との差異は、まさにこの「仕組みづくりの技法」にこそあると思っています。
これらの技法をもって作品をつくるナデガタと、「児童館」という場所、「中高生」という存在がどんなふうに織り合わさっていくのか。次回はこの児童館と中高生について書いていきます。
つづく
* こう書くと「ナデガタは自分たちの目的のために市民を搾取している」と批判を食らうことがありそうですが、ぼくはこの批判には賛成しかねます。 水戸芸術館、国際芸術センター青森、月見の里学遊館などの事例を見てもわかるとおり、ナデガタのメンバーも担当されていた学芸員の方々も参加者との関係を続けています。確かに、参加した人たちの人生に大きな影響をあたえたかもしれません。しかし、音楽の事例を見ればわかるように、芸術にそのような力があることは自明のことでしょう。