こんにちは、臼井です。ひきつづき「アーティスト・イン・児童館2011 Nadegata Instant Partyプロジェクト《全児童自動館》」について。「道化」のように楽しげなことを提供しつつ、参加者と共につくった”出来事”を「美術」として提示していくNadegata Instant Party。今回は、彼らを招聘する児童館とそこに集まる中高生の状況、それを見てナデガタを招待しようと思うに至った経緯について。
「子どもらしさ」という壁
2009年の12月から中村児童館にボランティアとして通い始めて、たくさんの中高生と出会ってきました。自分もそうだった(下手すれば今もそうだ)けど、周囲とどうやって関わったらいいのか、将来どうやって生きていけばいいのか、不安な時期を過ごしています。
通過儀礼を失った現代では「モラトリアム」と揶揄されるように、大人と子どもの境目はぼんやりしています。大人たちは、ある時期までは純粋無垢な「子どもらしさ」を求め、ふとした時から「大人」としての態度を求める。しかし、「教育」という制度が生まれる以前はすべての子どもは「小さな大人」だったわけで、「子どもらしさ」というのは先天的なものではなく、近代以降の考え方だと言えるでしょう。今、もう一度彼らを「小さな大人」として眼差すことは、いかにして可能でしょうか。
「児童館」とは、遊びを通した子どもの健全な育成を目的とする公共施設であり、その対象は0〜18歳と幅広いです。午前中は乳幼児とそのお母さんたちのための場と活動を提供し、午後は放課後の小学生の遊び場になります。ドッジボールやけん玉、ピアノをならしたりマンガを読んだりするのが日常で、ときおり縁日をやったり、歌や踊りのイベントを開催したりしてハレの日もあります。児童館などの公共施設は、子どもたちにとってはちょっと違う遊びや、先生や親とは違う大人に出会える「サードプレイス」として貴重な場所です。その一方で、「児童の館」という名前のとおり、子どもが喜びそうな遊びが用意されていて、「子どもらしさ」をここでもまた求められるわけです。
もしかしたら自分は「遊ばされている」のかもしれないし、気付かないうちに「子どもらしさ」の壁に囲われてしまっているのかも知れない…、そんなようなことを漠然と不安に感じ、抵抗をはじめるのが、いわゆる思春期というか中高生ぐらいの年代です。
「楽しいこと」という壁
放課後の小学生の児童館のこれまでのスタンダードな姿ですが、近年では「中高生の居場所づくり事業」という政策が始まり、中高生が児童館を利用する、という新しい状況が生まれています。練馬区立中村児童館は、練馬区内で最初に中高生の居場所づくり事業を展開し始め、なかなかの成功を収めている一方、利用者が広がりきらない、他の児童館にノウハウが共有されない、などの課題も残しています。
交通費さえなんとかなれば大抵の場所には行けてしまうし、インターネットがあれば大抵のことを知ることができる時代。現在の中高生の状況を観てみると、中学3年生のケータイ保有率は50%を超え、高校2年生になると90%を軽く超えています*。その中でmixiやtwitterなどのSNSを利用する子がほとんどで、実際ぼくの「マイミク」や「フォロワー」にも中高生が何人かいて、交流もあります。特に東京に住む中高生たちの周りにはありふれた「楽しいこと」があふれていて、例えばファッションや音楽、テーマパークやカラオケ、旅、スポーツなど、「大人の嗜み」としてトレンド化されたものに触れることはたやすいのです。それらを「楽しい」「かっこいい」とする価値基準を他者と共有することで、つながり、満たされる。例えば「音楽」はその共有に「バンド」のような具体的な形や感覚を与えます。児童館にいる中高生たちの中には、何かしらの楽器ができる子がとても多く、「音楽」を1つの媒介に、児童館はつながりを醸成しています。
しかし、音楽をはじめとする彼らにとっての「楽しいこと」はマーケティングされ次々に生み出され、壁のように彼らを囲っています。子どもっぽいものはイヤだ、と思った次のステップが、もうすでに用意されている。その閉塞感はなかなかしんどいんじゃないかなぁと感じます。児童館に集まる中高生たちは、なんとなくその「壁」から逃れようとしているようにも感じるわけです。その閉塞感、というか「見えない壁」のようなものの存在に対して敏感な子が多いんじゃないかなという印象があります。
「個人の意志」、「小さな大人」という希望
児童館は、小学生にとっても中高生にとっても家庭や学校とは違う場所で、違う価値基準で、違う大人と関われる「サードプレイス」。しかし、そこは子どものために用意された「楽しいこと」と「子どもらしさ(あるいは中高生らしさ)」を求める眼差しという2つの「見えない壁」に囲われた場所でもある。
と批判してみたものの、ぼくがこの施設に希望を持っているのには理由があります。1つはこの場所に来る人たちは「個人の意志」あるいは「友達同士の合意」のもとに来ている(つまり親や先生の指示でなく、自分たちの意思である)というところ。もう1つは、時として児童館の運営をサポートする「スタッフ」として、大人と同じポジションに立つことが出来る場所だというところ。特に中村児童館はこのあたりを巧みにマネジメントしています。 もういわゆる「子ども」じゃないし、放課後だから「生徒」を演る時間も終わっている。この2つの条件があれば、彼らを「子どもらしさ」に押し込めることなく、「小さな大人」として眼差しうると考えています。
中村児童館に通うなかで、アホで優しくて繊細な中高生に好感を抱きつつ、放課後の時間に開かれた可能性にときめくと同時に、彼らがつくる奇妙な閉塞感を強烈に感じました。この奇妙な閉塞感を生み出す「見えない壁」を扱える人はどんな人だろう。単に「楽しいこと」のではなく、「楽しいこと」の価値を混ぜ返せるアーティスト。そうして思い浮かんだのは、ぼくが最初に違和感を持ったNadegata Instant Partyでした。かくして中村児童館に集まる中高生はこのなんだかわからない大人たちと出会うことになったのです。
つづく
*ベネッセ教育開発センター調べ(http://benesse.jp/berd/data/dataclip/clip0001/index.html)