篠田桃紅がフィラデルフィアから来日したアーサー・フローリー(1914-1972)の勧めでリトグラフを始めたのは、2年間の渡米から帰国してまもなくの1960年代初めごろです。桃紅が墨による抽象作品を精力的に制作し、さらなる新しい表現を模索し始めた時期でした。その後、63年以降は木村希八(1934-2014)の刷りにより制作を続け、生涯にわたって1000点余りの作品を手掛けました。
自身の筆を使い、版にインクで描写するリトグラフは、水墨で紙に書いてきたやり方をそのまま置き換えることができ、墨色の拡がりや擦れなどの筆の抑揚を可能な限り表現できる版画技法です。版画に特有の製版、転写というプロセスを経ることで、版の上の水の動きによって思いがけない別の線があらわれます。桃紅は、刷り上がった作品一枚一枚の上に、刷りの状態を確かめながらオリジナルの一筆を加えます。
また、「版画は、歳月の歴史を刷りこむことはないが、生の筆を、いったん封じ込めて、甦らせる人のいのりの心を託す場がある。その心が、描く者、刷る者の間に行き交いを生み、そのあいだを右往左往する電流を、私などはいつもたのしいものに感じて、リトグラフを作っている。」と、著書『その日の墨』(1983年)の中で書いていますが、桃紅にとって、リトグラフ制作は創造の領域を拡げてくれるものであり、大切な表現の一つでした。
本展では、刷り師・木村との信頼関係と40年以上にわたる協働によって生まれたリトグラフを展示し、一筆によって生命を吹き込まれ、それぞれ違った表情をみせる桃紅リトグラフの魅力に迫ります。